第9話
新人講習も、残すところ僅かとなった。
「……何だったんだ、あれ」
夕暮れの街を歩きながら、僕は今日の模擬戦を思い返していた。
『始め!』
鬼塚教官の声が響く。
僕は木剣を構えた。
正面には神代蒼真。いつもと変わらない、自然体の構え。
神代君が動いた。
そう思った次の瞬間。
『……え?』
視界いっぱいに、訓練場の天井が広がっていた。
背中には硬い床。
首元には、木剣。
『そこまで!』
何をされたのか分からなかった。
斬られた?
足を払われた?
投げられた?
何度思い返しても、神代君が動いた瞬間から記憶が繋がらない。
「はぁ……」
ため息が漏れる。
一か月前より身体は動くようになった。
剣だって、まともに振れるようになった。
少しは強くなったと思っていた。
だけど――。
「……強すぎるよ」
あれでは勝負ですらない。
悔しい。
でも、考えても分からないものは仕方がない。
「明日、鬼塚教官に聞こう」
まずは何をされたのか知る。
反省するのは、それからだ。
僕は頬を軽く叩いた。
「よし」
顔を上げる。
家までは、もう少しだった。
◇
「ただいま」
玄関の扉を開ける。
返事はなかった。
「……あれ?」
いつもなら母さんの声が返ってくる。
靴を脱ごうとして、足が止まった。
見慣れた革靴がある。
「父さん?」
まだ仕事をしている時間のはずだ。
嫌な予感がした。
リビングの扉を開ける。
「ただいま……」
父さんと母さんがいた。
母さんはエプロンをつけたまま椅子に座っている。
その隣には父さん。
短く整えられた髪に、百八十センチを優に超える長身。スーツの上からでも分かるほど筋肉質な体格。
仕事から急いで帰ってきたのか、ネクタイすら外していない。
二人とも、僕を見ていた。
「……何?」
誰も答えない。
父さんの右手には、一通の封筒が握られていた。
「黎」
低い声。
「座れ」
胸がざわついた。
言われるまま、二人の向かいに座る。
父さんが封筒から一枚の紙を取り出し、テーブルへ置いた。
「これは何だ」
「……!」
心臓が跳ねた。
冒険者資格試験の受験票。
「なんで……」
「今日、届いた」
父さんの声は静かだった。
「お前宛てにな」
「……」
「説明しろ」
ついにバレた。
いつかは知られると分かっていた。
それでも、試験が終わるまでは知られたくなかった。
「最近、毎日出かけてたの……」
母さんが不安そうに僕を見る。
「冒険者ギルドに行ってたの?」
「……うん」
「いつから?」
「夏休みに入ってから」
父さんが受験票へ視線を落とす。
「もう登録したのか」
「うん」
「俺達に黙って?」
「……うん」
父さんの眉間に皺が寄った。
「登録料はいくらだ」
「四十万円」
「その金はどうした」
「自分で用意した」
「どうやって」
言葉に詰まる。
「黎」
「……自分で稼いだ」
「中学生のお前が、どうやって四十万も稼ぐ」
答えられない。
治験のことは言えなかった。
父さんの目が鋭くなる。
「何をした」
「……」
「言えないようなことをしたのか」
「違う!」
「だったら説明しろ」
「それは……」
沈黙が落ちる。
「あなた」
母さんが父さんの腕に触れた。
父さんは大きく息を吐いた。
「……分かった。この話は後だ」
納得したわけではない。
それは表情を見れば分かった。
「一つ確認する」
父さんが僕を見る。
「お前、本気で冒険者になるつもりなのか」
「うん」
「遊びじゃないんだな」
「違う」
迷う必要なんてなかった。
「僕は冒険者になる」
「駄目だ」
即答だった。
「……」
「認めない」
分かっていた。
こうなることくらい。
だから黙っていた。
「なんで」
「理由を言わなきゃ分からないのか」
「分からないよ」
父さんの表情が険しくなる。
「冒険者は命を懸ける仕事だ。怪我をする。身体が欠損する。死ぬことだってある」
「分かってる」
「分かってない」
父さんはきっぱりと言った。
「分かっていたら、俺達に黙って登録なんてしない」
「……」
何も言い返せなかった。
「黎」
母さんが口を開く。
「あなた、自分の身体のことは分かってるでしょう?」
「……うん」
「小さい頃から、どれだけ大変だったか……」
母さんの声が弱くなる。
「どうして、そんな危険な仕事を選ぶの?」
「なりたいから」
「え?」
「冒険者になりたいからだよ」
それ以外に理由なんてなかった。
「小さい頃からずっとそうだった」
テレビに冒険者が映れば、食い入るように見ていた。
玩具の剣を持って家中を走り回った。
ダンジョンについて書かれた本を、何冊も読んだ。
「黎……」
「だから、この試験を受ける」
「駄目だ」
父さんは譲らなかった。
「絶対に受ける」
「駄目だ!」
「なんで父さんが決めるんだよ!」
「お前がまだ中学生だからだ!」
「関係ない!」
「ある!」
思わず立ち上がった。
父さんも立ち上がる。
「僕の人生だろ!」
「だからこそ言ってるんだ!」
「僕は冒険者になる!」
「黎!」
「それでいつか――」
息を吸う。
「雷斗伯父さんみたいな冒険者になるんだ!」
静寂が落ちた。
父さんの顔から、怒りが消えた。
「……雷斗さんみたいに、か」
低い声だった。
「そうだよ」
「お前は、雷斗さんがどうやって死んだか忘れたのか」
「忘れてない」
「なら、どうしてそんなことが言える」
「……」
「雷斗さんはS級だった」
父さんが僕を見る。
「日本でも数えるほどしかいない冒険者だった。それでも死んだんだ」
「分かってるよ」
「なら――」
「それでも、なりたいんだよ!」
声が響いた。
父さんが黙る。
「自分が弱いことくらい、この一か月で嫌ってほど分かったよ」
最初は走ることすらまともにできなかった。
剣を振れば、すぐに腕が上がらなくなった。
何度も転んだ。
何度も置いていかれた。
「でも」
父さんを見る。
「一か月前の僕とは違う」
「……」
「毎日講習に行った。皆が帰っても残った。鬼塚教官にも教えてもらった」
父さんも母さんも黙っている。
「走れる距離も伸びた。剣だって、最初より振れるようになった」
ほんの少しずつだった。
それでも、確かに変わった。
「だから……」
テーブルの上の受験票を見る。
「僕が無理だって言うなら、ちゃんと見てから決めてよ」
「何?」
「明日、試験なんだ」
父さんを見る。
「僕がこの一か月、何をしてきたのか見に来てよ」
「……」
「それで本当に無理だって思ったなら、その時はちゃんと父さんの話を聞く」
長い沈黙が流れた。
父さんは何も言わず、僕を見ていた。
やがて椅子に腰を下ろす。
「……分かった」
「え?」
「明日、俺も行く」
父さんが受験票を手に取る。
「お前が何をしてきたのか、この目で見る」
「父さん……」
「勘違いするな」
受験票をテーブルへ戻す。
「許したわけじゃない」
「……うん」
「その上で判断する」
僕は受験票を見つめた。
明日、一か月の新人講習を終え、ついに冒険者資格試験が始まる。
合格すれば、僕は冒険者になれる。
そして――父さんに、この一か月の僕を見せる日でもあった。




