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第10話


 常闇の中、巨大な何かが地面に這いつくばっていた。

 グチャ、グチャ、と。

 肉を咀嚼する湿った音だけが、静まり返った迷宮に響いている。


「ブフゥ……」


 やがて、それが顔を上げた。

 二メートルを優に超える巨体。隆々と盛り上がった筋肉。その頭部からは、禍々しく湾曲した二本の角が伸びている。

 牛頭の怪物――ミノタウロス。

 口元から滴る赤黒い液体を、太い腕で乱暴に拭う。

 その足元には、一人の男が倒れていた。

 いや。もはや、それを人と呼べるのかすら怪しい。

 顔の半分を食い千切られ、露出した骨の隙間から赤黒い肉が覗いている。見開かれた眼は白目を剥き、残された半分の顔には、死の間際に味わった苦痛がそのまま張り付いていた。


「ブフゥ……」


 ミノタウロスが再び男へ手を伸ばす。

 太い指が頭部を掴み――バキッ。

 頭蓋が砕ける音が響いた。

 だが、それに反応する者はいない。

 誰も来ない。魔物すら、来ない。

 広大な迷宮に存在するのは、ミノタウロスと死体だけ。

 異様なほどの静寂。

 その時だった。


「――――」


 ミノタウロスが動きを止めた。

 ゆっくりと顔を上げる。

 迷宮のさらに奥。光すら届かぬ暗闇を見つめ、鼻を鳴らした。


「ブフッ……ブフゥ……」


 何かに怯えるように。

 先ほどまで人間を貪っていた怪物が、僅かに後退する。

 そして次の瞬間。


「ブモォォォォォォォォッ!!」


 絶叫。

 巨体を翻し、逃げるように暗闇の中を駆け出した。

 あとに残されたのは、食い荒らされた男の死体だけだった。

 そして――男の腰には、血に濡れた冒険者カードがぶら下がっていた。



 軽やかに揺れる巻かれた長い金髪をかき上げ、化粧を施したハンサムな風貌の男がにこやかに笑う。


「はーい、皆さんこんにちは。私はD級冒険者の細木よっ」


(癖の強い人がやってきた……)


 僕は初めて会うタイプの人を前に、どう反応すればいいのか分からず戸惑う。


「これから、楽しい楽しい冒険者資格試験を始めるわねー」

「遂に……」

「試験か」


 場の空気が張り詰めるのを感じる。

 この一ヶ月間の血反吐を吐くような努力。

 そして、二十万円という決して安くない代償。

 全てがこの試験にかかっている。


「本当は渋谷ダンジョンの表層で、ゴブリンちゃん達と遊んでもらう予定だったんだけどぉ……急遽、変更になりましたー」


 ざわり、と周囲が騒めいた。


「変更?」

「なんでだ?」

「詳しいことはアタシからは言えないんだけどね。上からのお達しで、現在、渋谷ダンジョンへの立ち入りが制限されているの」


 細木は人差し指を立てると、僕達を見渡した。


「だから今回は、この訓練場で――」


 ニッコリ。


「ワ・タ・シと戯れてもらうわね♡」


「……は?」


 誰かの間抜けな声が響いた。

 僕も同じ気持ちだった。


「えっと……細木さんと戦うってことですか?」

「あらぁ、察しのいい子は好きよ」


 細木が僕にウインクを飛ばしてくる。


「……」


 僕はそっと視線を逸らした。


「ルールはとっても簡単!」


 パンッ、と細木が両手を叩く。


「一人ずつアタシと戦ってもらいます。制限時間は三分。その間の動きを見て、アタシが合否を決めるわ」

「倒せば合格ですか?」


 一人が尋ねる。

 すると。


「…………」


 細木の笑顔が消えた。

 空気が変わった。


「無理よ」

「え?」

「あなた達じゃ、アタシには勝てないわ」


 先ほどまでの甲高い声ではない。

 低く、落ち着いた男の声だった。

 その変化に、誰も言葉を発せない。


「勘違いしないことね。冒険者資格試験は、強い人間を選ぶための試験じゃない」


 細木はゆっくりと僕達を見渡す。


「自分が何をできて、何ができないのか。それを理解できる人間を選ぶ試験よ」


 再び、その口元に笑みが戻った。


「魔物ちゃんはねぇ、あなた達の都合なんて考えてくれないの。勝てない相手なんて、いくらでも出てくるわ」


 細木は腰に差していた木剣を抜いた。


「そんな時に必要なのは勇気じゃない」


 切っ先が地面へ向けられる。


「生きて帰るための判断力よ」


 僕は無意識に唾を飲み込んだ。

 鬼塚教官に、この一ヶ月間何度も言われた言葉が蘇る。

 ――冒険者の仕事は魔物を倒すことじゃない。

 ――生きて帰ってくることだ。


「ま、難しく考えなくていいわ」


 細木は再びニコッと笑った。


「逃げ回るのもよし。攻めるのもよし。降参するのもよし。あなた達がこの一ヶ月で何を学んだのか――」


 木剣を肩に担ぐ。


「アタシに見せてちょうだい♡」


 その瞬間だった。


「俺から行く」


 聞き覚えのある声。

 人混みを割って、一人の少年が前へ出る。

 蒼い髪。

 神代蒼真。


「……蒼真」


 思わず名前が口から漏れた。

 数日前の光景が蘇る。

 気づいた時には地面に倒され、首元へ刃を突きつけられていた。

 僕は未だに、どうやって負けたのかすら理解できていない。


「あらぁ」


 細木が蒼真を上から下まで眺める。


「随分と威勢のいい子ね」

「三分だったな」

「ええ」

「必要ない」


 蒼真が訓練用の剣を抜いた。


「一分で終わらせる」

「…………」


 一瞬の沈黙。

 そして細木の口角が、ゆっくりと吊り上がった。


「あら」


 嬉しそうに頬へ手を添える。


「そういう生意気な子――」


 木剣を構えた。


「大好物よ♡」




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