第10話
常闇の中、巨大な何かが地面に這いつくばっていた。
グチャ、グチャ、と。
肉を咀嚼する湿った音だけが、静まり返った迷宮に響いている。
「ブフゥ……」
やがて、それが顔を上げた。
二メートルを優に超える巨体。隆々と盛り上がった筋肉。その頭部からは、禍々しく湾曲した二本の角が伸びている。
牛頭の怪物――ミノタウロス。
口元から滴る赤黒い液体を、太い腕で乱暴に拭う。
その足元には、一人の男が倒れていた。
いや。もはや、それを人と呼べるのかすら怪しい。
顔の半分を食い千切られ、露出した骨の隙間から赤黒い肉が覗いている。見開かれた眼は白目を剥き、残された半分の顔には、死の間際に味わった苦痛がそのまま張り付いていた。
「ブフゥ……」
ミノタウロスが再び男へ手を伸ばす。
太い指が頭部を掴み――バキッ。
頭蓋が砕ける音が響いた。
だが、それに反応する者はいない。
誰も来ない。魔物すら、来ない。
広大な迷宮に存在するのは、ミノタウロスと死体だけ。
異様なほどの静寂。
その時だった。
「――――」
ミノタウロスが動きを止めた。
ゆっくりと顔を上げる。
迷宮のさらに奥。光すら届かぬ暗闇を見つめ、鼻を鳴らした。
「ブフッ……ブフゥ……」
何かに怯えるように。
先ほどまで人間を貪っていた怪物が、僅かに後退する。
そして次の瞬間。
「ブモォォォォォォォォッ!!」
絶叫。
巨体を翻し、逃げるように暗闇の中を駆け出した。
あとに残されたのは、食い荒らされた男の死体だけだった。
そして――男の腰には、血に濡れた冒険者カードがぶら下がっていた。
◇
軽やかに揺れる巻かれた長い金髪をかき上げ、化粧を施したハンサムな風貌の男がにこやかに笑う。
「はーい、皆さんこんにちは。私はD級冒険者の細木よっ」
(癖の強い人がやってきた……)
僕は初めて会うタイプの人を前に、どう反応すればいいのか分からず戸惑う。
「これから、楽しい楽しい冒険者資格試験を始めるわねー」
「遂に……」
「試験か」
場の空気が張り詰めるのを感じる。
この一ヶ月間の血反吐を吐くような努力。
そして、二十万円という決して安くない代償。
全てがこの試験にかかっている。
「本当は渋谷ダンジョンの表層で、ゴブリンちゃん達と遊んでもらう予定だったんだけどぉ……急遽、変更になりましたー」
ざわり、と周囲が騒めいた。
「変更?」
「なんでだ?」
「詳しいことはアタシからは言えないんだけどね。上からのお達しで、現在、渋谷ダンジョンへの立ち入りが制限されているの」
細木は人差し指を立てると、僕達を見渡した。
「だから今回は、この訓練場で――」
ニッコリ。
「ワ・タ・シと戯れてもらうわね♡」
「……は?」
誰かの間抜けな声が響いた。
僕も同じ気持ちだった。
「えっと……細木さんと戦うってことですか?」
「あらぁ、察しのいい子は好きよ」
細木が僕にウインクを飛ばしてくる。
「……」
僕はそっと視線を逸らした。
「ルールはとっても簡単!」
パンッ、と細木が両手を叩く。
「一人ずつアタシと戦ってもらいます。制限時間は三分。その間の動きを見て、アタシが合否を決めるわ」
「倒せば合格ですか?」
一人が尋ねる。
すると。
「…………」
細木の笑顔が消えた。
空気が変わった。
「無理よ」
「え?」
「あなた達じゃ、アタシには勝てないわ」
先ほどまでの甲高い声ではない。
低く、落ち着いた男の声だった。
その変化に、誰も言葉を発せない。
「勘違いしないことね。冒険者資格試験は、強い人間を選ぶための試験じゃない」
細木はゆっくりと僕達を見渡す。
「自分が何をできて、何ができないのか。それを理解できる人間を選ぶ試験よ」
再び、その口元に笑みが戻った。
「魔物ちゃんはねぇ、あなた達の都合なんて考えてくれないの。勝てない相手なんて、いくらでも出てくるわ」
細木は腰に差していた木剣を抜いた。
「そんな時に必要なのは勇気じゃない」
切っ先が地面へ向けられる。
「生きて帰るための判断力よ」
僕は無意識に唾を飲み込んだ。
鬼塚教官に、この一ヶ月間何度も言われた言葉が蘇る。
――冒険者の仕事は魔物を倒すことじゃない。
――生きて帰ってくることだ。
「ま、難しく考えなくていいわ」
細木は再びニコッと笑った。
「逃げ回るのもよし。攻めるのもよし。降参するのもよし。あなた達がこの一ヶ月で何を学んだのか――」
木剣を肩に担ぐ。
「アタシに見せてちょうだい♡」
その瞬間だった。
「俺から行く」
聞き覚えのある声。
人混みを割って、一人の少年が前へ出る。
蒼い髪。
神代蒼真。
「……蒼真」
思わず名前が口から漏れた。
数日前の光景が蘇る。
気づいた時には地面に倒され、首元へ刃を突きつけられていた。
僕は未だに、どうやって負けたのかすら理解できていない。
「あらぁ」
細木が蒼真を上から下まで眺める。
「随分と威勢のいい子ね」
「三分だったな」
「ええ」
「必要ない」
蒼真が訓練用の剣を抜いた。
「一分で終わらせる」
「…………」
一瞬の沈黙。
そして細木の口角が、ゆっくりと吊り上がった。
「あら」
嬉しそうに頬へ手を添える。
「そういう生意気な子――」
木剣を構えた。
「大好物よ♡」




