第6話
シンと静まり返った石造りの迷宮を駆け抜ける者達。彼らの足音だけが、広大な空間に虚しく反響していた。
一行の表情は険しい。
とりわけ先頭を駆ける金髪の剣士、セリナの瞳には焦りと怒りが宿っている。
やがてセリナは足を止めた。
「……いない」
辺りを見渡しても、魔物の姿は一体たりともない。
「セリナ様……やはり」
「言われなくても分かってる!」
吐き捨てるように叫ぶ。
強く噛み締めた奥歯が、ギリッと音を立てた。
「間違いない……魔祭の予兆よ」
「ですが、周期にはまだ3年以上あります」
「だから異常なのよ」
セリナは拳を握り締める。
「魔物が一匹もいないダンジョンなんて存在しない。奴らは逃げたんじゃない……集まっている」
「まさか……」
「ええ。迷宮の最深部で群れを成し、外へ溢れ出る時を待っている。始まれば、この街は地獄になるわ」
セリナは胸元のペンダントを握り締めた。
その様子を見ていた女性冒険者の一人が、悲しそうに顔を背ける。
「……雷斗先輩」
「おいっ!」
すかさず制したのは、髭面の冒険者だった。
女性冒険者はハッとして口元を押さえる。
「す、すみません、セリナ様……」
「いいの」
セリナは静かに首を振った。
「みんながお父様を慕ってくれていたことは、私も知ってるから」
「……ご存じだったのですか」
「ええ。お父様の日記に、あなた達の名前が何度も出てきたわ」
髭面の冒険者が息を呑む。
セリナは握り締めていたペンダントを開いた。
中に収められていたのは、一枚の小さな写真。
まだ幼いセリナを肩車し、豪快に笑う一人の男が写っている。
藤宮雷斗、旧姓は一ノ瀬。
かつて【雷帝】の異名で呼ばれ、日本最強の一角に数えられたS級冒険者。
そして――セリナの父だった。
「10年前と同じ……」
誰も答えない。
「魔祭が予定より早く起きた。お父様達は避難が終わるまで、ここで魔物を食い止め続けた」
「セリナ様。それ以上は……」
「そして、お父様だけが帰ってこなかった」
静かな声だった。
怒鳴りもしなく、涙も流さない。
だからこそ、その言葉に込められた感情が痛いほど伝わった。
髭面の冒険者は拳を握り締める。
「……雷斗さんは、俺達を逃がすために残ったんです」
「知ってるわ」
「俺達が弱かったからだ。あの人一人に――」
「違う!」
セリナの声が迷宮に響いた。
「お父様はそんなこと、一度だって思ってない!」
男は言葉を失った。
セリナは写真を見つめる。
「お父様が最後に残した言葉、覚えてる?」
「……ええ」
髭面の冒険者の脳裏に、あの時の言葉が蘇る。
『頼んだぞ……』
頼られたことが嬉しくもあり、同時にどうしようもなく悲しかった。
あの時すでに、雷斗さんが己の死を覚悟していたことは分かっていた。
言葉ではなく、その眼に宿った強い意志が、何より雄弁にそれを物語っていた。
「なら、そんな顔しないで」
ペンダントを閉じる。
そしてセリナは踵を返した。
その瞳から、先ほどまでの動揺は消えていた。
「同じことは繰り返させない」
腰のロングソードを強く握る。
「今度は私が止める」
「セリナ様……」
セリナは振り返る。
「藤宮家の名前でも、S級冒険者の娘という肩書でも、使えるものは全部使う」
そして、暗闇の続く迷宮の奥を睨みつけた。
「必ず、食い止めてみせるわ」
◇
新人講習3日目。
世間は夏休みの真っ只中。学校へ行く必要のない僕は、朝から東京都中央冒険者ギルドへ通っていた。
「遅い! 止まるな!」
鬼塚教官の怒声が訓練場に響く。
「はっ……はっ……!」
肺が焼けるように痛い。
足は鉛でも括りつけられたように重く、少しでも気を抜けばその場に倒れ込みそうだった。
それでも、前に進む。
訓練場の外周を走る講習生達の背中は、もう遥か前方にある。
僕だけが取り残されていた。
「一ノ瀬! 歩くな!」
「は、はいっ!」
返事をした直後、呼吸が乱れる。
苦しい。
たった数日で嫌というほど思い知らされた。僕は弱い、走れない、腕立て伏せもできない。木剣を振ればすぐに腕が上がらなくなる。
冒険者を目指してここへ来た人達の中でも、間違いなく僕は最底辺だった。
「終了!」
鬼塚教官の声が響く。
次々と講習生達がその場に座り込んだ。
「疲れたぁ……」
「今日もキツすぎるだろ」
「これ、本当に毎日やるのかよ……」
僕は少し遅れてゴールへ辿り着き、そのまま地面に膝をついた。
「うっ……」
吐きそうだ。喉の奥まで酸っぱいものが込み上げてくる。
「五分休憩。その後、基礎筋力訓練に移る」
「マジかよ……」
誰かの絶望した声が聞こえた。
僕も同じ気持ちだった。だけど、嫌ではなかった。苦しく、辛く、身体のあちこちが痛い。
それでも、ここにいれば冒険者へ近づける。そう思えば、不思議と耐えられた。
「今日はここまでだ。各自、身体を休めろ。明日に疲労を残すな」
四時間の講習が終わった。
「ありがとうございました!」
講習生達が次々と訓練場を出ていく。
僕も荷物をまとめーーなかった。木剣を一本手に取る。
「……よし」
今日の講習で上手くできなかった構えを思い出す。
足を肩幅に開く、腰を落とす、両手で木剣を握る。
「一……二……」
振り下ろす。
「三……四……」
腕が痛い。
それでも続ける。
「五……六……」
まだ皆についていけない。なら、皆が帰った後にやるしかない。
僕には才能なんてない。運動が得意なわけでもない。だったら、人より多くやる。それくらいしか思いつかなかった。
「十九……二十……!」
訓練場の入口。
帰る途中だった鬼塚は、その姿をしばらく無言で眺めていた。だが、声を掛けることなくその場を後にした。




