第36話
ズシン、ズシンと背後から重い足音が近づいてくる。それでも僕は振り返らず、腕の中にいる晴人を見つめていた。
もう動かない。ついさっきまでくだらないことを言って、拓真に怒られて、それでも最後まで僕と一緒に戦っていた晴人が、今はどれだけ名前を呼んでも答えてくれない。
拓真も死んだ。晴人も死んだ。二人とも、僕は守れなかった。
「……なんで」
自分の手を見る。
一週間前、僕はこの手を見ながら何を思っただろう。身体が強くなった。
反応も速くなって、魔物を素手で殴ることさえできた。だから嬉しかった。この力があれば、もっと誰かを守れる。もっと強くなれる。そう思っていた。
「……全然、足りないじゃん」
晴人の身体をゆっくりと地面へ寝かせ、開いたままの目を閉じる。
「ごめん……守れなくて」
ドクンッ、と心臓が大きく脈打った。
「僕がもっと強かったら……」
拓真は死ななかった。晴人も死ななかった。もっと強ければ二人とも守れた。もっと力があれば――。
「もっと……力が……」
欲しい。
ドクンッ!!
「――ッ!?」
全身を貫いた激痛に、その場へ膝をついた。身体が内側から焼かれている。骨が軋み、筋肉が引き裂かれるように膨れ上がり、指先から伸びていく爪が黒く染まっていく。口の中にも違和感が走り、歯が獣のように鋭く尖った。
「あ……がっ……あああああああああああっ!!」
頭が割れそうだった。
額を押さえた指の隙間から血が流れ、皮膚を突き破って二本の角が伸びていく。
身体から溢れ出した膨大な魔力は黒い靄となって周囲を覆い、足元の小石が震え、壁に群生する光キノコまで激しく揺れ始めた。
痛い。苦しい。怖い。
それなのに、その感覚さえ少しずつ遠ざかっていく。拓真の顔も、晴人の声も、自分がどうしてここにいるのかさえ、深い闇の向こうへ沈んでいった。
「……」
やがて、”それ”はゆっくりと立ち上がった。
額から伸びた二本の角。鋭い爪と牙。身体を包み込む黒い魔力。そして暗闇の中で赤く輝く二つの瞳。そこに立っているものは、もう先ほどまでの少年とは似ても似つかない姿をしていた。
「ブフゥ……」
ミノタウロスが初めて動きを止めた。
巨大な斧を握り直し、警戒するようにこちらを睨んでいる。ついさっきまで一方的に追い詰めていた獲物が、別の何かへ変わったことを本能で理解したのかもしれない。
赤い瞳がミノタウロスを捉える。
拓真。晴人。逃げる。地上へ帰る。
そんなものはもう、頭の中には残っていなかった。
「――ァ……」
口が開き、喉の奥から低い音が漏れた。
それはもう、一ノ瀬黎という十四歳の少年が発する声ではない。大きく息を吸い込み、肺の奥から溢れてくる衝動をそのまま吐き出す。
「グォォォォォォォォォォォォォォッ!!」
咆哮が洞窟を揺らした。
空気が震え、天井から岩の欠片が降り注ぎ、壁に生えた光キノコが一斉に揺れる。遠くからは魔祭によって蠢く魔物たちの鳴き声が聞こえていたが、その一瞬だけ、すべてが黙り込んだように感じられた。
「ヴォオオオオオオオオオッ!!」
対するミノタウロスも負けじと雄叫びを上げる。
二匹の怪物の咆哮が、洞窟の中で激突した。
◇
先に動いたのはミノタウロスだった。
巨体からは想像できない速度で地面を蹴り、巨大な斧を振り上げながら迫ってくる。対する魔人も地面を蹴った。
その一歩だけで足元の岩盤が砕け、黒い影となって正面から突っ込んでいく。
振り下ろされた斧に対し、魔人は避けるどころか拳を振り上げた。
ガァァァァン!!
拳と斧が真正面から激突し、凄まじい衝撃が洞窟を駆け抜ける。周囲の岩壁に亀裂が走り、光キノコが千切れ飛ぶ。
「グォッ!?」
押されたのはミノタウロスだった。
巨体が一歩、二歩と後退する。それを追って魔人は一気に懐へ潜り込み、無防備になった腹へ拳を叩き込んだ。
ドゴォッ!!
ミノタウロスの巨体が浮き上がる。しかし倒れない。着地と同時に巨大な拳を振るい、今度は魔人の顔面を殴り飛ばした。
身体が岩壁へ激突し、崩れた岩がその姿を飲み込む。
「ブフゥ……!」
荒い息を吐きながら、ミノタウロスが瓦礫を睨む。
やがて岩の隙間から、黒い爪が現れた。
「……グルルルル」
瓦礫を押し退け、立ち上がる。
その口元から血が流れていたが、赤い瞳から戦意は一切消えていない。それどころか、牙を剥き出しにした口元は、どこか笑っているようにすら見えた。
「グォォォォォォォッ!!」
再び咆哮を上げ、それはミノタウロスへ襲いかかった。
◇
――魔人。
その名が初めて歴史に刻まれたのは、ダンジョンが世界各地に出現してから数十年後のことだった。
人類がダンジョンという未知の領域へ足を踏み入れ、魔物を狩り、魔石や魔鉱物を持ち帰り、少しずつその存在を理解し始めた時代。ある探索隊が、深層で一体の奇妙な魔物と遭遇した。
姿は人間によく似ていた。
二本の腕と二本の脚を持ち、二足で歩き、言葉を理解するだけの知性さえ持っていた。しかし、その頭部から伸びる二本の角と全身から放たれる膨大な魔力は、明らかに人間のものではなかった。
そして何より――強かった。
遭遇した探索隊は壊滅。生還した僅かな冒険者によって、その存在が初めて地上へ伝えられた。
後に人類は、その怪物を《魔人》と呼ぶようになる。
魔人が他の魔物と決定的に異なるのは、その知性にあった。獣のように本能だけで襲いかかるのではない。敵を観察し、考え、時には罠を仕掛け、人間の言葉すら操る。それでいて肉体は強力な魔物を凌駕し、体内には人間とは比較にならないほど大量の魔力を宿している。
人間の知性と、魔物の肉体。
その両方を兼ね備えた存在。
長いダンジョンの歴史においても、確認された魔人は僅か一体のみだった。
少なくとも――公には。
◇
東京青昌大学ダンジョン研究所。
地下深くに存在する研究区画のさらに奥、限られた研究者しか立ち入ることを許されていない一室に、古びた資料が保管されていた。
そこには、世間には存在すら知らされていないもう一体の魔人について記されている。
始まりは単純な疑問だった。
――人間を、魔人へ近づけることは出来ないのか。
人間とは比較にならない身体能力。膨大な魔力。そして魔物と直接渡り合える肉体。それを人為的に再現できれば、人類はダンジョン攻略を大きく前進させられる。
研究は極秘裏に進められた。
そして十数年前。
研究者たちは一つの薬を完成させた。
人間の肉体を魔力へ強制的に適応させ、魔人に近い存在へ変異させるための薬――魔人化ポーション。
しかし、それは人類に新たな力を与えることはなかった。
実験中、被験者の一人に異常が発生した。
肉体が急激に変異し、額から角が生え、人間ではあり得ないほどの魔力が身体から溢れ出した。そして完全に理性を失った被験者は、研究施設内で暴走した。
研究員、警備員、そして鎮圧のために投入された冒険者。
多くの人間が殺された。
それが歴史上二体目の魔人。
そして――人類が生み出した最初の《人工魔人》だった。
事件は政府によって隠蔽され、魔人化に関する人体実験は禁忌となった。研究資料の大半は封印され、関係者には厳しい守秘義務が課された。
それから十数年、人類の前に新たな魔人が現れることはなかった。
◇
そして現在。
渋谷ダンジョン第三層。
「グォォォォォォォォォォォォォッ!!」
人間のものではない咆哮が洞窟を震わせる。
壁に群生する光キノコが激しく揺れ、天井から細かな岩が降り注ぐ。その中心で、二本の角を生やした怪物がミノタウロスへ襲いかかっていた。
拳と斧が激突する。
轟音とともに岩盤が砕ける。
一撃。
また一撃。
怪物は殴られても立ち上がり、血を流しながら再びミノタウロスへ飛びかかる。その姿から、かつての少年の面影はほとんど失われていた。
誰も知らない。
ダンジョン庁も、魔導局も、地上で息子の帰りを待つ両親さえも。
この瞬間、渋谷ダンジョンの地下で何が生まれたのかを。
世界で三体目。そして、二体目の人工魔人。
その名は―― 一ノ瀬黎。




