第37話
けたたましい警報が、渋谷の街に鳴り響いていた。
『緊急警報。緊急警報。渋谷ダンジョンにて魔祭が発生しました。周辺にいる方は係員の指示に従い、速やかに避難してください。繰り返します――』
スクランブル交差点の大型ビジョンが一斉に緊急放送へ切り替わり、街中の電光掲示板には赤い警告表示が点滅する。
つい数分前まで買い物や仕事帰りの人々で賑わっていた街は一変し、誰もが渋谷ダンジョンから遠ざかろうと走り出していた。
その流れとは反対に、ダンジョンの入口には冒険者たちが続々と集結している。
「前衛、絶対に通すな! 後衛は入口に攻撃を集中させろ!」
怒号と共に剣や槍が振るわれ、地上へ這い出してきたゴブリンが斬り伏せられる。
その後ろから飛び出したグレイウルフには矢が突き刺さり、さらに巨大な棍棒を手にしたオークが現れれば、複数の冒険者が連携して押し留めた。
本来なら異なる階層に生息する魔物たちが、今は種族も縄張りも関係なく地上を目指して押し寄せている。
魔祭――ダンジョン内部で増え続けた魔物が、一斉に地上へ溢れ出す災害。
その発生自体は想定されていた。渋谷ダンジョンでは以前から魔物の異常行動が確認され、ダンジョン庁も警戒を強めていたからだ。
しかし実際に始まった魔祭は、彼らの予測を遥かに上回っていた。
「また来るぞ!」
「何匹いるんだよ、こいつら……!」
倒しても、倒しても終わらない。入口を埋め尽くしていた魔物を殲滅した直後には、その奥からさらに多くの影が押し寄せてくる。
冒険者たちの足元には大量の死骸が積み重なり、流れ出した血が地面を赤黒く染めていた。
それでも彼らは退けない。この防衛線を突破されれば、その先にいるのは戦う術を持たない一般人なのだ。
だが、どれほど鍛えられた冒険者であっても体力には限界がある。
「ぐあっ!」
前衛の一人がオークの棍棒を受け、後方へ弾き飛ばされた。僅かに生まれた隙間へグレイウルフが飛び込み、冒険者の間をすり抜けて地上へ駆け抜けていく。
「一匹抜けたぞ!」
「追え! 街に出すな!」
すぐに別の冒険者が追おうとしたが、その前へ新たな魔物が立ちはだかった。そうして一匹、また一匹と防衛線を突破する魔物が増えていく。
小さな綻びだったものは瞬く間に広がり、ついには数十体もの魔物が冒険者たちを押し退けて渋谷の街へ雪崩れ込んだ。
グレイウルフが道路を駆け抜け、逃げ遅れた人間を追い回す。
オークの棍棒が停車していた車を叩き潰し、ゴブリンたちは甲高い声を上げながら路地へ散っていった。
拮抗していた戦況は、完全に崩れた。
魔物が街へと流れ始めた。
◇
「ん?」
鳴り響く警報を耳にして、一人の少年が足を止めた。
青みがかった髪に整った顔立ち、身に纏っているのはどこにでもある中学生の制服。しかし、その背中には学生鞄とは別に細長い黒袋が担がれていた。
神代蒼真。
下校途中だった彼は、周囲の生徒たちが騒ぎ始める中、一人だけ警報の聞こえてくる方角へ顔を向ける。やがて近くの大型ビジョンが緊急放送へ切り替わり、渋谷ダンジョンで魔祭が発生したことを伝え始めた。
「魔祭か」
呟きながら、蒼真は背中の黒袋へ手を伸ばした。その中に収められているのは竹刀でも木刀でもない。
人間を斬れば容易く命を奪うことのできる、本物の日本刀である。
下校途中の中学生が、なぜ真剣を当たり前のように持ち歩いているのか。
普通ならば許されるはずがない。しかし神代蒼真という少年に、一般的な中学生の常識は当てはまらなかった。
神代家――日本において、その名を知らぬ者はほとんどいない。
神話に語られる《剣神》の血を受け継ぎ、千年以上にわたって剣術を継承してきた日本最古の武門。その歴史は皇室とも深く結びついており、神代家は天皇家の外戚として政財界にも大きな影響力を持っている。
ダンジョンが出現してからは数多くの高位冒険者を輩出し、現在においても日本最強の一族と呼ばれる名家。
そして蒼真は、その直系に生まれた少年だった。
彼が通う中学校もまた、各界の名家や優秀な人材が集められる英才教育の名門校であり、蒼真には神代家の後継者として特別な待遇が認められている。
真剣の携行もその一つであり、幼い頃から剣を握ってきた彼にとって、刀を持って学校へ通うことは特別なことでも何でもなかった。
「蒼真!」
後ろから呼ばれて振り返ると、同じ制服を着た男子生徒が走ってくる。
「先生が校内に戻れって! 渋谷ダンジョンで魔祭が起きたらしいぞ」
「知ってる」
「だったら早く戻ろうぜ。魔物が街まで出てるらしい」
そう言って腕を掴もうとする同級生を横目に、蒼真は背負っていた学生鞄を地面へ置いた。続いて黒袋を下ろし、口を縛っていた紐を解く。
黒い布の中から現れたのは、黒塗りの鞘に収められた一振りの刀だった。
「……お前、何してんの?」
蒼真は答えず、刀を腰へ差した。
「ちょっと行ってくる」
「行くって……どこに?」
「渋谷ダンジョン」
「はぁ!?」
素っ頓狂な声が上がった。
冗談を言っているのだと思ったのか、同級生は蒼真の顔を覗き込む。しかし、その表情がいつもと何一つ変わっていないことに気づくと、慌てて前へ回り込んだ。
「待て待て、魔祭だぞ!? ニュース見ただろ、冒険者でも抑えられてないんだぞ!」
「だから行くんだけど」
「だからって何だよ!?」
蒼真は僅かに首を傾げた。
「強い奴がいるかもしれない」
「……は?」
それだけ言うと、蒼真は同級生の横を通り過ぎた。周囲では教師たちが生徒を校内へ誘導し、街を歩いていた人々も警報に従って渋谷から離れようとしている。
その人波の中を、蒼真だけが反対方向へ歩いていった。
別に誰かを助けたいわけではない。
街を守らなければならないという使命感もなければ、冒険者として人々の盾になろうという正義感もない。
そもそも蒼真は、英雄という存在そのものに大した興味を持っていなかった。
彼が幼い頃から追い求めてきたものは、ただ一つ。
剣だった。
どうすればもっと速く斬れるのか。どこへ刃を入れれば最小限の力で命を断てるのか。
人間より大きな相手ならどこを狙うべきか、自分より速い相手ならどう動きを制限するべきか。
剣を握れるようになった頃からそんなことばかりを考え、来る日も来る日も斬るという行為を突き詰めてきた。
だから魔物が街に溢れていると聞いても、恐怖より先に興味が湧いた。
どんな魔物がいるのだろう。
どう斬れば死ぬのだろう。
それを確かめてみたい。
「君! 止まりなさい!」
警察官の声に、蒼真が足を止めた。道路の向こうでは規制線が張られ、警察官たちが避難してくる人々を誘導している。
「この先は避難区域だ。学生はすぐに戻りなさい」
「魔物は?」
「何?」
「どっちから来てる?」
警察官が怪訝そうな顔をした、その直後だった。
「ギャギャギャッ!」
甲高い鳴き声と共に、横道から三匹のゴブリンが飛び出してきた。手には錆びた短剣や棍棒が握られ、その刃にはすでに赤い血が付着している。
「下がれ!」
警察官が咄嗟に蒼真を庇おうと前へ出る。
その横を、蒼真が通り過ぎた。
「おい、何を――」
鯉口を切る。
先頭のゴブリンが短剣を振り上げた瞬間、蒼真の身体が沈み込んだ。
シュッ、と風を切る音が一度だけ響く。
ゴブリンはそのまま数歩走り、やがて首から血を噴き出して崩れ落ちた。いつ刀を抜いたのか警察官には見えなかった。
気づいた時にはすでに蒼真は二匹目の懐へ入り込み、振り下ろされた棍棒を半身でかわしながら刀を腹部へ滑り込ませている。
刃が肉を裂き、そのまま脇腹から抜けた。
二匹目が倒れるより早く、残されたゴブリンが蒼真へ飛びかかる。しかし蒼真は振り向こうともせず、一歩だけ横へ動いて攻撃を外すと、すれ違いざまに刀を振るった。
ゴブリンの身体が地面へ転がった。
「……」
警察官は言葉を失っていた。
三匹を斬るのに十秒も掛かっていない。蒼真は刀についた血を振り払い、地面に転がった死体へ視線を落とした。
「遅いな」
期待していたほどではなかった。
刀を鞘へ戻そうとした、その時。
「グルルルル……」
路地の奥から低い唸り声が聞こえてきた。
蒼真の手が止まる。
暗がりの中からグレイウルフが姿を現し、その後ろからさらに一匹、二匹と続いてくる。十匹を超えたところで数えるのをやめた。
別の路地からはゴブリンの群れまで現れ、そのさらに後方には二メートルを優に超えるオークの姿も見える。
「君、逃げろ! 早く!」
警察官が叫ぶ。
しかし蒼真は逃げなかった。
むしろ一歩、前へ出た。
グレイウルフは速い。先に数を減らした方がいい。だが、あの位置からオークを倒せば巨体が路地を塞ぎ、後続の動きを制限できる。右側の壁を利用すれば同時に相手をする数も減らせる。
目の前に迫る怪物たちを見ながら、蒼真の頭の中ではすでに、どう斬れば最も効率よく皆殺しにできるのか、その手順が組み上がり始めていた。
「……なるほど」
口元が僅かに緩む。
ゴブリンが叫び、グレイウルフが地面を蹴った。
その瞬間、蒼真も駆け出した。
逃げる人々とは正反対の方向へ、刀を片手に魔物の群れへ飛び込んでいく。
この時、神代蒼真に人々を救うつもりなどなかった。
ただ斬りたかった。
もっと速く、もっと正確に、もっと効率よく。
目の前にいる魔物を斬り殺すことしか考えていなかった。
だが、その日。
逃げ惑う人々の中で、ただ一人魔物へ向かっていく少年の姿を、多くの者が目撃することになる。
後に数え切れないほどの人々から英雄と呼ばれることになる少年――神代蒼真。
その英雄伝説は、本人の意思とはまるで関係なく、この日から始まった。




