第33話
一週間後、僕たち三人は渋谷ダンジョン第三層にいた。
千紗が抜けてから何度か三人で探索を行い、ようやく新しい連携にも慣れ始めてきた頃だった。今日は第三層で軽く戦い、三人での動きを確認したら帰る。それだけの予定だった。
第三層は薄暗い洞窟のような場所だ。ゴツゴツとした岩肌がどこまでも続き、その壁には淡い光を放つキノコが群生している。青白い光に照らされた洞窟には不思議な美しさがあった。
「……」
その景色を見ていると、嫌でもあの日を思い出す。
千紗と二人で落とし穴に落ちた日。
魔物に追われ、この第三層を必死に逃げ回った。そして、九ヶ月もの間、千紗が探し続けていた人を見つけた。
『お姉ちゃん……おかえり』
白骨化した姉を抱きしめて泣いていた千紗の姿が、今でも頭から離れない。
「黎?」
「……え?」
「どうした。ボーッとして」
振り返ると拓真がこちらを見ていた。
「いや……なんでもない」
「無理すんなよ。嫌なら今日は第二層に戻ってもいい」
「大丈夫」
僕は首を横に振った。
「行こう」
「……そうか」
拓真はそれ以上何も聞かなかった。
「ったく、二人して何暗くなってんだよ」
晴人が盾を背負い直しながら僕たちの横を通り過ぎる。
「さっさと行こうぜ。今日は稼ぐぞ」
「今日は連携確認が目的だ。深追いしないって言っただろ」
「分かってるって」
「その台詞、何回目だよ」
「うるせえな」
そんなやり取りを聞いていると、少しだけ気持ちが軽くなった。
三人になった。
まだ違和感はある。
それでも少しずつ、この形にも慣れ始めていた。
それから僕たちは第三層を進み、何度か魔物と戦った。晴人が盾で攻撃を受け止め、僕が横から斬り込み、拓真が槍で仕留める。千紗がいた頃とは違う戦い方だったが、一週間も続けていれば自然と身体が動くようになっていた。
「よし、こんなもんだろ」
戦闘を終えた拓真が槍についた血を振り払う。
「もう帰るのか?」
「今日は確認だけだって言っただろ」
「まだいけるって」
「お前の『まだいける』は信用してない」
「なんでだよ」
拓真が呆れたようにため息を吐く。
「黎は?」
「僕も今日は帰った方がいいと思う」
「ほら」
「裏切り者!」
「なんで!?」
思わず笑ってしまう。
晴人が文句を言いながら先に歩き出し、僕と拓真もその後を追った。
いつもの光景。
少し前まで四人だったことを除けば、これが今の僕たちの日常になり始めていた。
その時だった。
――ズシン。
「……?」
足を止める。
僅かに地面が揺れた。
「今の何?」
「地震じゃね?」
晴人が気にも留めず歩こうとする。
しかし拓真は動かなかった。
「待て」
低い声だった。
――ズシン。
もう一度、今度ははっきりと分かった。
壁に生えた光キノコが振動で小さく揺れ、天井から砂埃が落ちてくる。
ズシン。
ズシン。
一定の間隔。
しかも――近づいている。
「……足音?」
僕が呟く。
拓真が槍を構えた。
「二人とも武器を持て」
その声を聞いた瞬間、晴人の表情からも笑みが消えた。背負っていた盾を構え、僕もショートソードを抜く。
光キノコの淡い光が続く洞窟の先。
その向こうから、巨大な影が近づいてきた。
ズシン。
太い脚が光の中へ踏み込む。
「……なんだよ、あれ」
晴人の声が震えた。
岩のように盛り上がった筋肉。僕たちを遥かに見下ろす巨体。その首から上にあるのは人間の顔ではなく、二本の巨大な角を生やした牛の頭だった。
右手には、巨大な斧。
「ブフゥ……」
鼻から白い息が吐き出される。
知っている。
新人講習で習った。
牛頭の怪物――ミノタウロス。
「なんで……」
拓真の顔から血の気が引いていく。
「なんでミノタウロスが第三層に……」
その反応だけで十分だった。
戦ってはいけない。
拓真が叫ぶ。
「逃げろ!!」
「えっ――」
「戦うな! 走れ!!」
晴人が振り返る。
僕も走ろうとした。
その瞬間、ミノタウロスの巨体が沈み込んだ。
「――っ!」
速い。
あれほど巨大な身体が、一瞬で目の前まで迫ってくる。
「黎!!」
拓真に突き飛ばされた。
身体が地面を転がる。
直後――凄まじい風切り音が響いた。
ブォンッ!!
巨大な斧が横薙ぎに振り抜かれる。
「拓――」
赤いものが飛んだ。
何かが地面へ落ち、転がっていく。
理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
「……拓真?」
少し離れた場所に拓真が倒れていた。
動かない。
岩肌を赤い血が広がっていく。
「……は?」
晴人も盾を構えたまま固まっていた。
「おい……拓真?」
返事はない。
ついさっきまで話していた。
晴人に呆れて、僕を心配して、今日はもう帰るぞと言っていた。
なのに。
「拓真……?」
僕はもう一度名前を呼んだ。
返事はなかった。
ミノタウロスは血の滴る斧を持ち上げると、大きく息を吸い込んだ。
「ヴォオオオオオオオオオオオオッ!!」
轟音が洞窟を駆け抜けた。
空気が震え、壁に群生する光キノコが一斉に揺れる。
そして――。
「グォオオオオオッ!!」
「ギャアアアアアッ!!」
「ギィィィィィッ!!」
返ってきた。
一つではない。
洞窟の奥から、そのさらに向こうから、数え切れないほどの魔物の咆哮が重なっていく。
「……なんだよ、これ」
晴人が呟く。
ズズズズズズ……。
地面が震え始めた。
遠くから無数の足音が聞こえてくる。
僕は知っていた。新人講習で何度も教えられた。ダンジョンから大量の魔物が溢れ出し、地上へ押し寄せる災害。
百年以上、人類が恐れ続けてきた現象。
「……魔祭」
僕の声を掻き消すように、ミノタウロスが再び雄叫びを上げた。
◇
一年前。
「お兄ちゃん……」
小さな手が、僕の服の裾を握っていた。
見下ろすと、ミユが俯いている。まだ九歳だった妹の目は泣き腫らして真っ赤になっていて、それでも涙だけは必死に堪えていた。
目の前には二つの遺影。
父さんと母さんだった。
交通事故だった。
警察から説明を受けた時のことは、ほとんど覚えていない。何時頃に、どこで、どうして事故が起きたのか。大人たちが色々と話していた気がするけれど、何一つ頭に入ってこなかった。
ただ、父さんと母さんはもう帰ってこない。
それだけは分かった。
「お兄ちゃん……」
もう一度、ミユが僕を呼ぶ。
「私たち、これからどうなるの?」
「……」
答えられなかった。
僕だって十五歳だった。
学校に行って、友達と遊んで、帰れば飯が用意されている。金がどこから来るのか、電気代がいくらなのか、家賃がいくらなのか。そんなこと考えたこともなかった。
でも、もう父さんも母さんもいない。
そして僕には、守らなければならない妹がいる。
ミユの頭に手を置いた。
「大丈夫だ」
「……ほんと?」
「ああ」
何が大丈夫なのか、自分でも分からなかった。
それでも兄である僕が不安そうな顔をするわけにはいかなかった。
「俺がいるから」
ミユが顔を上げる。
「父さんと母さんはいなくなったけど、俺はいる。だから何も心配すんな」
「……お兄ちゃん、いなくならない?」
一瞬、言葉に詰まった。
ミユは怖いのだ。
昨日まで当たり前にいた父さんと母さんが、突然いなくなった。だったら兄だって、いつか突然いなくなるかもしれない。
僕はしゃがみ込み、ミユと目線を合わせた。
「いなくならないよ」
「ほんとに?」
「ああ。約束する」
小さな手を握る。
「俺がミユを守るから」
それから、嫌でも現実を知った。
生きていくには金がいる。
食費、家賃、光熱費、学校に通う金。両親が残してくれた金もある。でも、それだけでずっと暮らしていけるわけじゃない。
俺も働かなければならない。
ただ、十五歳の俺にできる仕事なんて限られていた。
そんな時、目に入ったのが冒険者だった。
命を懸けてダンジョンへ潜り、魔物を狩る。
危険な仕事。
その代わり、稼げる。
強くなって上の階級へ行けば、大人と同じどころか、それ以上の金だって稼げる。
「……これしかない」
怖くなかったわけじゃない。死ぬかもしれない。
でも、それ以上に怖かった。
金がなくなって、ミユを守れなくなることが。
欲しいものを我慢させて、行きたい学校にも行かせてやれず、妹の未来まで奪ってしまうことが。
そんなのは絶対に嫌だった。
「俺がやるしかないんだ」
誰に言うでもなく呟いた。
父さんの代わりにはなれない。
母さんの代わりにもなれない。
それでも、俺はミユの兄だ。
だったら――俺が守る。
俺が稼ぐ。
ミユが大人になって、自分の人生を歩けるようになるまで。
絶対に。
「お兄ちゃん?」
振り返ると、ミユがこちらを見ていた。
「どうした?」
「今日、ハンバーグ食べたい」
「……またかよ」
「だめ?」
「いいよ。作ってやる」
「やった!」
嬉しそうに笑う妹を見て、俺も笑った。
この笑顔だけは守ろうと思った。
何があっても。だから俺は、冒険者になった。
金のために。
たった一人残された、大切な妹を守るために。
そして――。
必ず、生きて帰るために。




