第32話
千紗が冒険者を辞めたと聞かされた次の日。
僕は久しぶりに東京都中央冒険者ギルドを訪れていた。いつものように受付を抜け、待ち合わせ場所へ向かうと、既に拓真と晴人が椅子に座っている。
「お、来たか」
「遅ぇぞ、黎」
「時間ぴったりなんだけど……」
晴人の文句を適当に流しながら、空いている椅子に腰を下ろす。
僕、拓真、晴人。
三人だけ。
いつもなら、この中にもう一人いる。晴人がくだらないことを言えば「馬鹿」と冷たく返し、それに晴人が怒って言い争いが始まる。そんな光景が当たり前になりつつあった。
自然と、誰も座っていない椅子へ目が向いた。
「……三人になっちゃったね」
「ああ」
拓真が短く答える。
晴人は腕を組んで背もたれに身体を預けた。
「まあ、いいんじゃね? 三人でも。報酬の取り分増えるし」
「晴人、お前な……」
「なんだよ。本当のことだろ」
いつもの調子で言っているけれど、どこか無理をしているように見えた。あれだけ毎日のように喧嘩していた相手が突然いなくなったのだ。晴人だって、何も感じていないはずがない。
「それで、これからどうする?」
僕が尋ねると、拓真は少し考えてから答えた。
「明日はダンジョンには入らない」
「え?」
意外だった。
「千紗が抜けたから?」
「それもある。今まで四人で動くことを前提にしてたからな。三人になった以上、戦い方も変えないといけない。それに――」
拓真が僕を見る。
「お前、死にかけたんだぞ」
「……」
「何事もなかったみたいに次の日から潜る方がおかしいだろ。少し休め」
言われてみれば、その通りだった。千紗のこともまだ頭から離れない。
「じゃあ、新しい仲間探すのか?」
晴人が聞く。
「それも考えてる」
「俺は嫌だな」
「即答かよ」
「だって知らねえ奴だろ? そいつが使えるかも分かんねえし」
「お前も最初は知らない奴だっただろ」
「俺は使えるからいいんだよ」
「自分で言うな」
拓真が呆れたようにため息を吐く。
そのやり取りを見て、僕は少しだけ笑った。
三人になってしまったけれど、全部が変わったわけじゃない。
「まあ、今日は今後のことを話すだけだ。明後日から連携の訓練をかねて、軽くダンジョンに潜る。それまで各自休め」
「了解」
「はーい」
話が終わり、椅子から立ち上がろうとした時だった。
「……っ」
突然、右手に違和感が走った。
痛いわけではない。ただ、妙に熱い。
「どうした?」
「いや……なんでもない」
手を開いたり閉じたりしてみる。
やっぱり変だ。
それに、あんな事があったと言うのに身体の調子が良すぎる。
ダンジョンから帰ってきてから、ずっとそうだった。あれだけ酷使した身体なのに、筋肉痛はほとんど残っていない。それどころか、以前より軽く感じるくらいだ。
そしてもう一つ、気になっていることがある。あの日、落とし穴の先で魔物に追い詰められた時のことだ。
殺される――そう思った直後から、記憶がところどころ抜け落ちている。
魔物を殴ったことは覚えている。
でも、どうしてあんな力が出たのか、あの時の自分に何が起きていたのかは、いくら考えても分からない。
「……僕、どうやって倒したんだっけ」
「ん?」
「いや、なんでもない」
右手を握り締める。
その瞬間、脳裏に一瞬だけ何かが蘇った。
赤い液体、研究所。
そして――あの日、僕が飲んだ薬。
「……まさかね」
小さく呟き、僕は二人の後を追った。
◇
ギルドを出た後、僕は真っ直ぐ家には帰らなかった。
向かったのは近所の公園。平日の昼間ということもあって人影はほとんどなく、遊具の周りにも子供の姿はない。
「……やっぱり変だよな」
試しに公園の端から端まで走ってみることにした。
「っ……!」
地面を強く蹴った瞬間、予想以上の勢いで身体が前へ飛び出した。慌てて速度を落とし、振り返る。
「……速くなってる?」
新人講習では毎日のように走らされたから、自分がどの程度走れるのかは分かっている。少なくとも今の速度は、二日前までの僕とは明らかに違った。
もう一度走る。
やっぱり速い。それなのに、ほとんど息が上がらない。
「なんだ、これ……」
次に鉄棒へ向かい、両手で掴んで身体を持ち上げる。
一回、二回、三回。
以前なら数回やるだけで腕が震えていた。それなのに十回を越えてもまだ余裕があり、二十回を越えたところで気味が悪くなって自分から手を離した。
地面へ降り、両手を見つめる。
たった二日で、こんなに身体能力が上がるわけがない。
「……あの時からだ」
思い出すのは、千紗と二人で落とし穴へ落ちた後のことだった。
魔物に追い詰められ、逃げ場を失った。
殺される。
そう思った瞬間、身体の奥から何かが溢れ出した。
焼けるように熱かった。頭がおかしくなりそうなほど全身が熱を持ち、それまで感じていた恐怖が嘘のように消えていった。
そこから先の記憶は途切れ途切れだ。
ただ、一つだけ鮮明に覚えている。
握り締めた拳、歪んだ魔物の顔。
そして――拳を振り抜いた瞬間、魔物の身体が吹き飛んだ。
「……僕が殴ったんだよな」
自分の拳を見る。
剣じゃない、魔力を帯びた武器ですらない。
ただの拳だった。
それなのに、僕は魔物を殴り倒した。
「……おかしいだろ」
魔物は”魔力を帯びた物質”でなければ傷つけられない。それは新人講習でも最初に教わるほどの常識だ。
なのに、あの時はそんなことを考えてすらいなかった。ただ千紗を守らなければならないと思って、目の前の魔物を殴った。
そして――倒した。
「なんで……」
自分の手の甲を指でなぞる。見た目は何も変わっていない。皮膚が硬くなったわけでも、腕が太くなったわけでもない。
ガサッ。
突然、背後の茂みが揺れた。
「っ!」
反射的に振り返る。
気づけば腰を落とし、右手を強く握り締めていた。
しかし、そこにいたのは一匹の猫だった。
「ニャア」
「……猫か」
猫はこちらを一瞥すると、そのまま茂みの奥へ消えていく。
「びっくりした……」
胸を撫で下ろしかけて、手が止まった。
今、考えるより先に身体が動いた。
音が聞こえた瞬間には振り返り、戦う姿勢まで取っていた。
「……」
右手を見る。
走る速度だけじゃない。力だけでもない。
反応する速さまで変わっている。
普通じゃない。
そう思うと怖いはずなのに、握った拳を見つめているうちに、別の感情が胸の奥から湧いてきた。
あの時、僕は千紗を守ることができた。
この力があれば――。
「……もっと強くなれるのかな」
自分の口から漏れた言葉に、僕はしばらく拳を見つめ続けていた。




