第31話
翌朝、僕と千紗は渋谷ダンジョンから地上へ帰還した。
入口を抜けた瞬間、朝の光が目に飛び込んできて、思わず目を細める。少し湿った夏の空気、道路を走る車の音、行き交う人々の声。たった一晩ダンジョンにいただけなのに、そのどれもが随分と懐かしく感じられた。
「……帰ってきたんだ」
隣には千紗がいる。髪は乱れ、服は泥と血で汚れ、泣き続けたせいで目も赤く腫れていた。それでも僕たちは生きている。あの暗闇から、二人ともちゃんと地上へ戻ってくることができた。
「千紗」
「……何?」
「またね」
「……うん」
それだけ言って、僕たちは別れた。いつもと何も変わらない別れだったから、その時の僕は、それが冒険者としての千紗と交わす最後の言葉になるなんて思ってもいなかった。
家に着いた頃には朝の七時を過ぎていた。身体は限界で、一刻も早くベッドへ倒れ込みたいと思いながら玄関の扉を開ける。
「ただいま……」
返事の代わりに、家の奥から激しい足音が聞こえてきた。
「黎っ!!」
「うわっ!?」
母さんが凄い勢いで駆け寄ってきて、そのまま僕を抱きしめた。
「黎……黎ぃ……!」
「母さん、痛いって……」
「馬鹿っ! この馬鹿! どれだけ心配したと思ってるの!」
耳元で怒鳴る声は震えていた。連絡もつかない、帰ってもこない、ギルドに問い合わせても所在が分からない。もう二度と帰ってこないんじゃないかと思ったと泣きながら話す母さんの背中へ腕を回し、僕は何度も「ごめん」と繰り返した。
ダンジョンの中では自分たちが生き残ることだけで精一杯だった。まさか家でこんなにも心配している人がいるなんて、その時の僕は考える余裕すらなかったのだ。
「……黎」
顔を上げると、リビングの入口に父さんが立っていた。いつもと変わらない落ち着いた表情をしているけれど、その目の下には濃い隈ができている。
「父さん……仕事は?」
「休んだ。息子が帰ってこないのに、仕事なんかしてられるか」
父さんはゆっくりと僕の前まで歩いてくる。怒られるかもしれないと思って身構えた僕の肩を大きな手で掴み、そのまま強く抱き寄せた。
「よく戻ってきた。生きて帰ってきた、それでいい」
「……うん」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に張り詰めていたものが一気に緩んだ。
「ただいま」
「ああ、おかえり。黎」
僕は冒険者だ。自分の意思で魔物と戦い、命を懸ける道を選んだ。でも僕が死ねば泣く人がいる。そんな当たり前のことを、母さんの涙と父さんの腕の温かさから初めて実感した気がした。
泥と血で汚れた身体を風呂で洗い、部屋へ戻るなりベッドへ倒れ込んだ。身体はとっくに限界を迎えているはずなのに、目を閉じると昨日の光景が何度も頭の中に蘇ってくる。
『お姉ちゃん……おかえり』
白骨化した遺体を抱きしめて泣いていた千紗の姿が瞼の裏に焼きついて離れない。
僕は帰ってきた。母さんも父さんも待っていてくれた。でも千紗のお姉さんは、九ヶ月もの間、あの暗い場所で一人きりだった。
「……くそ」
寝返りを打って布団を頭まで被る。結局、眠りにつくことができたのは、それからしばらく経ってからだった。
目を覚ました時には夕方になっていた。枕元のスマートフォンには大量の通知が溜まっていて、そのほとんどが拓真と晴人からのものだった。どうやら僕たちが生還したことはギルドから伝えられたらしい。
『生きてて良かった。今日はゆっくり休め。また落ち着いたら話そう』
拓真らしい簡潔な文章だった。それに対して晴人から送られてきていたのは『お前マジでふざけんなよ!!』という怒鳴り声が聞こえてきそうな文章で、そのすぐ後には『生きてて良かったわ、マジで。今度焼肉奢れ』と続いている。
「なんで僕が奢るんだよ……」
思わず笑ってしまった。久しぶりに笑ったような気がして、そのままスマートフォンを置こうとしたところで手が止まる。
千紗からは何も来ていなかった。
連絡しようと思ってメッセージ欄を開いたものの、何を書けばいいのか分からない。お姉さんを見つけられて良かったね、なんて言えるはずもなければ、大丈夫かと聞くことさえ躊躇われた。大丈夫なわけがないことくらい、僕が一番よく知っている。
結局、一文字も送ることができないまま画面を閉じた。
翌日、拓真から『話がある』とだけメッセージが届いた。嫌な予感を覚えながら電話をかけると、数回の呼び出し音の後、いつもより少し低い声が聞こえてきた。
『黎か』
「うん。話って何?」
『……千紗のことだ』
その名前を聞いた瞬間、胸がざわついた。
「千紗がどうしたの?」
電話の向こうで拓真が少し黙り込み、それから静かに告げた。
『あいつ、冒険者辞めたぞ』
「……え?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「辞めたって……冒険者を?」
『ああ。今日、ギルドに退会手続きを出したらしい』
「なんで……」
そこまで言って、口を閉じる。
理由なんて分かっていた。
千紗が冒険者になったのは、九ヶ月前に渋谷ダンジョンで行方不明になった姉を探すためだった。そのために学校へ通うのをやめ、弓を握り、命の危険があるダンジョンへ何度も潜ってきた。そしてようやく見つけた姉は、もう二度と千紗の名前を呼んではくれなかった。
『俺も詳しくは聞いてない。ただ……もうダンジョンには入りたくないって』
「……そっか」
あの場所で何があったのか、僕は知っている。暗闇の中で魔物に追われ、殺されかけ、その果てに九ヶ月間探し続けた姉の亡骸を見つけた。それでも千紗は最後まで姉を離さず、地上まで連れて帰った。
そんな千紗に、もう一度ダンジョンへ潜ろうなんて僕には言えない。
『晴人には俺から話す。黎、お前も無理すんなよ』
「……うん、分かってる」
電話が切れると、静かな部屋に時計の音だけが響いた。
四人だった。
拓真が前で指示を出し、晴人が馬鹿みたいに騒いで、それに千紗が怒って、僕がそのやり取りを聞きながら剣を握っていた。パーティーを組んでから、まだそれほど時間は経っていない。それなのに、明日からはもうあの光景を見ることはない。
「……辞めちゃったのか」
寂しいと思った。
だけど、引き止めようとは思わなかった。
千紗は九ヶ月もの間、お姉さんを探し続けたのだから、もう弓を置いてもいい。ダンジョンから離れて、学校へ戻るのか、それとも別の道を歩くのかは分からない。それでも今度こそ、千紗自身のために生きてほしいと思う。
「……お疲れ様、千紗」
誰もいない部屋で小さく呟く。
こうして僕たち四人の、最初の冒険は終わった。




