第30話
アーマーベアとの戦いを終えた僕たちは、落ちてきた穴の下まで戻っていた。
「……やっぱり、ここから戻るのは無理そうだね」
魔導灯を掲げながら頭上を見上げる。僕たちが落ちてきた穴は数メートル上にあり、岩壁には手を掛けられそうな場所もほとんどない。僕一人なら無理をすれば登れるかもしれないが、脇腹を負傷している千紗を連れていくのは難しそうだった。
「……ごめん」
「なんで千紗が謝るの?」
「私が左に行こうって言ったから。私があんなこと言わなかったら、こんなところに落ちなかった」
千紗は俯いたまま、脇腹に巻いた包帯へ手を添えた。アーマーベアの爪が掠めただけだったのが幸いしたものの、歩くたびに痛むらしく、さっきから何度も顔をしかめている。
「でも、左に行くって決めたのは僕も同じだから。千紗だけのせいじゃないよ」
「……うん」
「それより、ここから出る方法を探そう。ずっとここにいる方が危ない」
僕は自分の右手へ視線を落とした。
今はどこからどう見ても普通の人間の腕だ。握ったり開いたりしてみても、先ほどアーマーベアを圧倒した異常な力は微塵も感じられない。
あれは何だったのか。どうして右腕が黒くなったのか。千紗が言っていた赤い目や、額から生えたという角も気になる。
考えれば考えるほど、自分の身体なのに自分のものではないような気がしてくる。
「黎?」
「……なんでもない。行こう」
今は考えている場合じゃない。ここは第三層。本来なら僕たちのような新人冒険者が足を踏み入れていい場所ではなく、アーマーベア以外にも僕たちでは到底敵わない魔物がいるかもしれない。さっきの力がもう一度使える保証もない以上、一刻も早く第二層へ戻る道を探す必要がある。
僕は地面に落ちていたショートソードを拾い、千紗も弓を手に取ると、魔導灯の光を頼りに洞窟の奥へ歩き始めた。
新人講習でも表層と第二層については詳しく教えられたが、第三層以降について鬼塚教官から言われたのは「新人が行く場所ではない」ということくらいだった。
ただ、階層を繋ぐ道が一つではないことだけは知っている。どこかに第二層へ戻れる場所があるはずだ。
「拓真たち……心配してるかな」
「絶対してるよ。僕たちが戻ってこないんだから」
「晴人、怒ってそう」
「『何やってんだよお前ら!』とか言いそうだね」
「ふふっ……言いそう」
千紗が小さく笑った。その顔を見て少し安心する。さっき僕があの姿になった時、千紗が一瞬だけ見せた表情が、ずっと胸に引っ掛かっていた。
僕を、怖がっていた。
そう考えると胸の奥がざわついたが、今は聞く勇気がなかった。
しばらく歩いていると、狭かった洞窟は徐々に広くなり始めた。天井も高くなり、岩壁には青白く発光する苔のような植物が生えている。試しに魔導灯を消してみると、無数の小さな光が暗闇の中に浮かび上がった。
「綺麗……」
「本当だ。星みたい」
こんな状況でなければ、もう少しゆっくり眺めていたかったかもしれない。けれど、ここが第三層だという事実を思い出し、すぐに魔導灯を点け直した。
幸いにも、それから魔物とは遭遇しなかった。曲がり角へ差し掛かるたびに僕が先に覗き込み、物音が聞こえれば立ち止まって耳を澄ませる。千紗が怪我をしていることもあり、普段の探索よりずっと遅い速度で進んでいた。
どれくらい歩いただろう。時計を確認すると、アーマーベアを倒してから三十分近く経っている。
「出口……見つからないね」
「うん。でも、進むしか――」
そこまで言ったところで、足を止めた。
魔導灯の光が、道の端に何かを映し出していた。
「……千紗、待って」
「どうしたの?」
「何かある」
少し先の岩壁にもたれ掛かるように、何かが座っている。最初は荷物かと思った。しかし近づくにつれて、その輪郭がはっきりしてくる。
薄汚れた靴。その中から伸びる二本の脚。そして破れた衣服の隙間から覗いている、白いもの。
「……人?」
千紗が僕の後ろから覗き込んだ。
「ここにいて。僕が確認する」
ショートソードを構えたまま慎重に近づいていく。魔導灯を向けた瞬間、その正体がはっきりと見えた。
「……っ」
人間の死体だった。
ただし、肉体はほとんど残っていない。頭蓋骨は俯くように垂れ下がり、衣服の襟元から白い頸椎が覗いている。袖から伸びる腕にも肉はなく、白く乾いた骨だけが残っていた。足元には外れたいくつかの骨が転がり、腰には錆びついた短剣らしきものが残されている。
手元には、弓が落ちていた。
弓使いの冒険者だ。
いつ死んだのかは分からない。それでも、ここまで白骨化している以上、少なくとも最近ではないだろう。
「……死んでるの?」
「うん。かなり前だと思う」
ダンジョンで人が死ぬ。それ自体は何度も教えられてきたし、冒険者になる以上、自分だっていつかこうなる可能性がある。
分かっていたはずなのに、実際に目の前にすると全然違った。
少し前まで、この骨にも名前があった。家族がいて、友達がいて、僕たちと同じようにダンジョンを歩いていた。
それが今は、誰にも見つけられないまま、こんな暗い場所で骨になっている。
「身元が分かるものがないか探してみる。地上に戻れたら、ギルドに伝えないと」
そう言って腰を落とした、その時だった。
「……え?」
背後から、千紗の声が聞こえた。
「千紗?」
振り返る。
千紗は僕ではなく、白骨死体を見ていた。いや、死体そのものじゃない。その身体に残された服を、食い入るように見つめている。
「……その服」
「服?」
「待って……」
千紗が歩き出した。
「千紗?」
「ちょっと、どいて」
「でも――」
「いいから!」
突然大きな声を出され、思わず身体を退ける。
千紗は白骨死体の前へ膝をつくと、震える手で上着に触れた。長い年月で泥に汚れ、あちこち破れている。それでも元々は淡い色をしていたらしく、胸元には小さな刺繍が残っていた。
「……嘘」
千紗の顔から血の気が引いていく。
「どうしたの?」
「これ……」
袖を掴む。
「この服……」
「知ってるの?」
「似てる……」
千紗は胸元の刺繍を指でなぞった。
「お姉ちゃんのに……似てる」
胸の奥が嫌な音を立てた気がした。
「お姉さんの?」
「うん……私、一緒に買いに行ったから」
千紗の声が震え始める。
そこまで言ったところで言葉が止まった。
「でも……似てるだけかもしれないよね」
千紗が僕を見る。
その目は、答えを求めていた。
「同じ服なんて……他にもあるよね?」
「……うん」
そう答えるしかなかった。
「そうだよね。こんなのだけじゃ分かんないよね。お姉ちゃんのって決まったわけじゃないし……」
早口で言いながら、千紗はもう一度服を見る。
そして、何かに気づいた。
「……あ」
千紗が胸元へ手を伸ばす。
三つ並んだボタン。そのうち二番目だけが、他の二つとは違う種類のものだった。
「ここ……」
「何?」
「このボタン……」
震える指先で、二番目のボタンに触れる。
「私が縫ったの」
「……え?」
「前のが取れちゃって……同じボタンが家になかったから、私が別のをつけたの。お姉ちゃん、変だから嫌だって言ったのに……これでいいって……」
千紗の呼吸が乱れていく。
「私が……縫った……」
もう一度、確かめるようにボタンを撫でる。
千紗の呼吸が乱れていく。
「嘘……」
白骨死体を見る。
「嘘……だよね……?」
今度は僕に聞いているんじゃなかった。
「お姉ちゃん……?」
千紗が頭蓋骨へ手を伸ばす。
触れる寸前で、手が止まった。
「……お姉ちゃん?」
返事はない。
「ねえ……」
頭蓋骨の頬にあたる部分へ、そっと触れる。
「ねえ、お姉ちゃん……」
当然、何も返ってこない。
「返事してよ……」
千紗の声が震えた。
「私だよ……千紗だよ……」
白い骨は何も答えない。
「探したんだよ……」
千紗の目から涙が溢れ始める。
「ずっと……ずっと探してたんだよ……!」
両手で白骨死体の肩を掴む。
「どこにいるのか分かんなくて……ギルドの人も見つからないって言って……でも絶対生きてるって思って……!」
「千紗……」
「私、冒険者になったんだよ!」
声が洞窟に響いた。
「学校も辞めて……弓もいっぱい練習して……怖くてもダンジョンに入って……!」
涙を拭うこともせず、千紗は白骨死体へ言葉をぶつけ続ける。
「お姉ちゃんを見つけるために……私、頑張ったんだよ……!」
その声が、次第に弱くなっていく。
「なのに……」
千紗の手から力が抜けた。
「こんなの……」
俯く。
「遅いよ……」
一滴、また一滴と涙が落ち、古びた服へ染み込んでいく。
「見つけるの……遅すぎるよ……」
僕は何も言えなかった。
慰める言葉なんて思いつかない。大丈夫なんて言えるはずもないし、千紗の気持ちが分かるなんて言う資格もない。
ただ隣にいることしかできなかった。
しばらくして、千紗は涙で濡れた顔を上げた。
白骨死体を見つめる。
そして、ゆっくりとその身体へ腕を回した。
「千紗……」
壊さないように、そっと。
古びた服ごと胸元へ抱き寄せる。
骨同士が触れ、小さな音が鳴った。
その音を聞いた瞬間、千紗の顔がまた歪んだ。それでも離さなかった。むしろ大切な人の温もりを思い出そうとするように、白骨となった身体を強く抱きしめる。
「……お姉ちゃん」
声が震えていた。
「私ね……ずっと待ってたんだよ」
返事はない。
「帰ってくるって言ったから……ずっと……」
千紗は目を閉じた。
頬を伝った涙が、汚れた服へ落ちていく。
「……おかえり」
その言葉だけは、不思議なくらい優しかった。
「お姉ちゃん……おかえり……」
九ヶ月間、言いたかった言葉だったのだろう。
千紗は白骨となった身体を抱きしめながら、声を押し殺して泣いていた。
僕はその隣に座り、何も言わずに見守った。
九ヶ月前、千紗のお姉さんはダンジョンから帰ってこなかった。
だから千紗は、自分から探しに来た。
学校を辞め、冒険者になって、弓を握り、何度も危険なダンジョンへ潜って。
そしてようやく――。
「おかえり……」
震える千紗の声が、静かな第三層に響いていた。




