第29話
アーマーベアの前脚が振り下ろされる。
「千紗ぁぁぁぁぁっ!!」
その瞬間。
僕の中で――何かが目を覚ました。
ドクンッ!!
心臓が激しく脈打ち、全身を焼くような熱が駆け巡る。
「ぐっ……!」
熱い。
身体の奥底から、何かが溢れてくる。
血液に混じって熱した鉄でも流れているような感覚。それは胸から肩へ、肩から右腕へと流れ込んでいく。
右腕が焼けるように熱くなった。
「あ……ぐっ……!」
皮膚の下で何かが蠢いている。
指先から黒い色が滲み出し、手の甲、手首、前腕へと瞬く間に広がっていく。爪は黒く染まりながら鋭く伸び、皮膚そのものが人間のものとは思えないほど硬く変質していった。
それだけじゃない。
視界が赤い。
暗かった洞窟の中が、突然明るくなったように見えた。岩壁の凹凸も、宙を舞う砂埃も、遠くに転がった僕のショートソードさえ、さっきまでとは比べものにならないほど鮮明に見える。
そして――。
千紗へ振り下ろされていくアーマーベアの前脚が、異様なほどゆっくりに見えた。
身体が勝手に動いた。
地面を蹴った瞬間、景色が後ろへ吹き飛んだ。
「――っ!?」
一瞬だった。
気づけば、僕は千紗の前に立っていた。
ズドンッ!!
凄まじい衝撃が洞窟内に響き渡る。
「……黎?」
千紗の声が聞こえた。
アーマーベアの巨大な前脚。
それを僕は――右腕一本で受け止めていた。
「……え?」
自分でも理解できなかった。
さっきは軽く振り払われただけで何メートルも吹き飛ばされた。まともに受ければ腕どころか身体ごと潰されてもおかしくない。
なのに。
「軽い……」
思わず言葉が漏れた。
「グ……?」
アーマーベアも困惑しているようだった。
僕の何倍もある巨体が力を込める。地面に足が沈み、岩が砕けるほどの力が右腕へ圧し掛かった。
それでも。
動かない。
いや。
「う……おおおおおっ!!」
右腕に力を込める。
「グォッ!?」
押し返した。
アーマーベアの巨体が大きく仰け反る。
「……嘘」
背後で千紗が呟いた。
僕も同じ気持ちだった。
何が起きている?この腕は何だ?どうして身体がこんなに軽い?
分からない、何一つ分からない。
だけど――。
「グオオオオオオッ!!」
アーマーベアが咆哮する。
考える暇なんてなかった。
怒り狂ったアーマーベアが再び前脚を振り上げる。その動きが、今の僕にははっきりと見えた。
遅い。
身体を僅かに横へずらす。
ブンッ!
爪が目の前を通り過ぎた。
さっきまで避けるだけで精一杯だった攻撃が、今は怖くない。
「はぁっ!」
懐へ潜り込み、黒く変色した右拳を腹部へ叩き込む。
ドゴッ!!
「グォッ!?」
鈍い音と共に、アーマーベアの巨体が浮いた。
そのまま地面を転がり、岩壁へ激突する。
「……」
自分の拳を見る。
黒い。
指先から肘の手前まで、人間のものではない色に変わっている。黒く伸びた爪は獣のように鋭く、拳を握るだけで今まで感じたことのない力が溢れてくる。
「これ……僕の腕……?」
「黎……」
振り返る。
千紗が僕を見ていた。
目を大きく見開き、呆然としている。
「どうしたの?」
「……目」
「え?」
「黎の……目……」
千紗の顔が引きつっている。
「目が……赤い」
「……」
何を言っているんだ。
そう思った時、額にも違和感を覚えた。
ズキズキとした鈍い痛み。
手を伸ばして触れる。
「……何、これ」
硬いものがある。
髪の生え際付近。左右に一つずつ。ほんの僅かではあるが、硬く尖った何かが皮膚を押し上げるように生えていた。
「角……?」
千紗が呟いた。
その言葉に、背筋が冷たくなる。
「僕に……?」
その時だった。
「グルルルル……!」
アーマーベアが立ち上がった。
口元から涎を垂らし、僕を睨んでいる。さっきまでとは違い、明らかに興奮していた。
「黎!」
「分かってる」
考えるのは後だ。
今はこいつをどうにかしないと。
僕は構える。
ショートソードは離れた場所に転がっている。
武器はない。
でも、不思議と取りに行こうとは思わなかった。
右手を握る。
これで十分だ。
「グオオオオオオオッ!!」
アーマーベアが突進してくる。
さっきと同じ。
いや、さっきより速い。
それなのに。
「……見える」
前脚が地面を蹴る瞬間。
重心の動き、肩の向き。どちらへ飛びかかってくるのかまで分かる。
僕は動かなかった。
「黎!?」
千紗の叫び声。
アーマーベアが目前まで迫る。
巨大な口が開き、鋭い牙が見えた。
あと少し。
あと――。
「今だ!」
身体を沈める。
頭上を巨大な顎が通過した。
そのまま懐へ潜り込み、右腕を振り上げる。
「うおおおおおおっ!!」
拳が顎を捉えた。
ドガンッ!!
「グォッ!?」
アーマーベアの頭が跳ね上がる。
巨体が後ろ脚だけで立ち上がり、そのまま大きくよろめいた。
今なら、倒せる。
そう思った。
理由なんてない。
なのに、身体の奥底から湧き上がってくる感覚が告げている。
こいつはもう――僕より弱い。
「……っ」
自分でそう考えたことにゾッとした。
さっきまで、あれほど怖かったのに。殺されると思った。
逃げることしか考えられなかった。
それなのに今は、怖くない。
「グルルル……!」
アーマーベアが四つ足へ戻る。
でも、さっきまでと様子が違う。
一歩。
後ろへ下がった。
「……え?」
アーマーベアが僕を見ている。
その目に浮かんでいるもの……僕には分かった。
恐怖。
「……僕を、怖がってる?」
その瞬間。
胸の奥から、何かが込み上げてきた。
嬉しい、違う。
楽しい、それも違う。
もっと本能的な何か。
自分より強かった相手が怯えている。
それが――。
「……」
口元が僅かに緩んだ。
「黎……?」
千紗の声で我に返る。
「っ……」
何だ。
今の僕は何を考えていた?
「グォッ!」
アーマーベアが突然、身体を反転させた。
「え?」
逃げる。
あのアーマーベアが。
「待て!」
反射的に地面を蹴る。
一瞬で追いついた。自分でも驚くほどの速度だった。
アーマーベアが振り返る。
その目に、はっきりと恐怖が浮かんでいる。
「グォォォッ!!」
追い詰められたアーマーベアが前脚を振るう。
僕は避けなかった。
黒い右手で、その腕を掴む。
「グッ!?」
「もう……」
指に力を込める。
硬質化した体毛が軋んだ。
「誰も傷つけさせない」
右腕を引く。
アーマーベアの巨体が崩れる。
そして、がら空きになった頭部へ拳を叩き込んだ。
「うおおおおおおっ!!」
ドゴォンッ!!
地面が揺れた。
アーマーベアの頭部が地面へ叩きつけられ、周囲に亀裂が走る。
「……」
静寂。
僕は荒い呼吸を繰り返しながら、その場に立ち尽くしていた。
「はぁ……はぁ……」
アーマーベアは動かない。
終わった。
「……倒した?」
信じられなかった。
さっきまで僕たち二人が何をしても傷一つまともにつけられなかった魔物を。
僕が、素手で。
「黎……」
千紗の声がした。
振り返る。
「千紗、大丈夫!?」
慌てて駆け寄ろうとした。
その瞬間。
「……っ!」
千紗の身体が僅かに強張った。
足が止まる。
「……千紗?」
千紗は僕を見ていた。
正確には、僕の右腕を。
そして、僕の顔を。
「……」
その表情を見て、胸が痛くなった。
怖がっている。
僕を。
「……どうしたの?」
声をかける。
千紗は答えない。
僕は自分の右手を見る。
黒く変色した皮膚、鋭く伸びた爪。額から生えた、小さな二本の角。
そして千紗が言っていた。
赤い目。
「……僕」
何なんだ。
これ、そう思った瞬間。
ドクンッ。
「ぐっ……!」
心臓が大きく脈打った。
今度は、さっきまでとは逆だった。身体から何かが急速に抜けていく。
「うっ……」
膝から力が抜ける。
「黎!」
千紗が咄嗟に駆け寄ってきた。
黒く染まっていた右腕が、指先からゆっくりと元の色へ戻っていく。鋭く伸びていた爪も縮み、額に触れると、そこにあったはずの角も消えていた。
「はぁ……はぁ……」
「黎、大丈夫!?」
「分かん……ない……」
身体が重い。
さっきまでの力が嘘だったみたいに、指一本動かすのも億劫だった。
千紗に身体を支えられながら、僕は倒れているアーマーベアを見る。
あれを僕が倒した。なのに、嬉しくなかった。
自分の右手を見る。
もう普通の手に戻っている。それでも、あの感触だけは残っていた。
アーマーベアの腕を掴んだ感触。
圧倒的な力。
そして――僕を見て怯えていた、あの目。
「……千紗」
「何?」
「僕……どうなってた?」
「……」
千紗はすぐには答えなかった。
少しだけ迷った後、僕の顔を見る。
「別人みたいだった」
「……え?」
「右腕が真っ黒になって、爪が伸びて……目も赤くなってた。それに」
千紗の視線が僕の額へ向けられる。
「小さいけど、角も生えてた」
「……」
言葉が出なかった。
人間に角なんて生えるはずがない。右腕が黒くなるはずもない。
あんな力が出るはずもない。
僕は震える右手を握り締めた。
あれは一体、何だったんだ。




