第28話
カラン。
暗闇の向こうから、小さな音がした。
「……っ」
僕と千紗が同時に顔を上げる。何かいる。僕はショートソードを構え、千紗もすぐに矢を番えて弓を引いた。
魔導灯を前へ向けると、淡い白色の光が暗闇を押し退けていく。ゴツゴツとした岩壁、湿った地面、転がっている獣の骨。その先には何も見えない。
「……気のせい?」
「いや」
確かに聞こえた。何かが地面に転がった金属を蹴ったような音だった。
僕は息を殺して耳を澄ませる。しばらく何も聞こえず、やっぱり気のせいだったのかと思い始めた、その時。
ズッ……ズッ……。
「……え?」
低く、荒い音が聞こえた。最初は何の音か分からなかったが、一定の間隔で繰り返されるそれを聞いて気づく。
呼吸だ。
「黎……」
「動かないで」
千紗を手で制しながら、暗闇を見つめる。何も見えない。それなのに、そこに何かがいるということだけは分かった。
やがて暗闇の中に、二つの光が浮かび上がった。
「グルルルル……」
低い唸り声と共に、巨大な前脚が魔導灯の光の中へ踏み込んでくる。黒褐色の体毛に覆われた脚の先には、地面を抉れそうなほど太く長い爪が生えていた。
一歩、また一歩と巨体が姿を現す。
「……嘘」
千紗の声が震えた。
熊だ。
形だけならそう見える。けれど、僕の知っている熊とは大きさも姿も明らかに違った。異常なほど発達した肩と太い四肢。黒褐色の体毛の一部は金属のような鈍い光沢を放っている。四足で立っているだけでも大きい。もし後ろ脚で立ち上がれば、三メートル近くあるんじゃないだろうか。
見たことがある。
新人講習で鬼塚教官から教わった魔物の一体。
「……アーマーベア」
「え?」
「アーマーベアだよ」
名前を口にしただけで、声が震えた。講習では写真でしか見ていない。それでも特徴は覚えている。魔力によって硬質化した体毛と皮膚を持ち、並の攻撃では傷を負わせることすら難しい大型の魔物。
渋谷ダンジョン第三層に少数だけ生息していると教わった。写真で見るのと、実際に目の前にするのとでは全然違う。
怖い。
頭で考えるより先に、身体がこいつとは戦ってはいけないと訴えていた。
『いいか。新人のうちは、自分が倒せる魔物と倒せない魔物を見極めろ』
鬼塚教官の言葉が脳裏に蘇る。
『特に大型の魔物を見つけた時は、勝てるかどうかなんて考えるな。アーマーベアなんかと遭遇したら――逃げろ』
「千紗」
「……何?」
「戦っちゃ駄目だ。ゆっくり下がろう」
アーマーベアから視線を逸らさないまま、一歩ずつ後退する。千紗も僕に合わせて動いた。
「グルルル……」
幸い、アーマーベアは追ってこない。頭を低くしたまま鼻を動かし、僕たちの匂いを嗅いでいる。
お願いだから、そのままでいてくれ。
そう願いながらさらに下がったところで、踵に硬いものが当たった。
「っ……」
後ろを見る。
壁だった。
正確には、僕たちが落ちてきた縦穴の真下。左右にも岩壁が続いている。逃げられる道は、アーマーベアが立っている方向にしかない。
「黎……どうするの?」
「……」
答えられなかった。
横をすり抜けるか。いや、無理だ。あの巨体のすぐ横を走り抜けるなんて危険すぎる。それなら、アーマーベアが立ち去るまでここで待つしかない。
「グルルルルル……」
唸り声が大きくなった。
アーマーベアが頭を振り、前脚で地面を掻き始める。
「……まずい」
「え?」
「千紗、来る!」
直後、アーマーベアが地面を蹴った。
「っ!?」
巨体からは想像できない速度だった。
「避けて!」
二人同時に左右へ飛ぶ。その直後、アーマーベアが岩壁へ激突し、洞窟全体が揺れるほどの轟音が響き渡った。
「きゃっ!」
細かな石が降り注ぐ。アーマーベアがぶつかった岩壁には亀裂が走り、一部が大きく砕けていた。
「嘘でしょ……」
千紗が呆然とする。
あんなものをまともに食らったら。
想像するだけで背筋が冷たくなった。
「走って!」
「どこに!?」
「あいつの横を抜けて奥へ行く!」
他に選択肢はない。アーマーベアが壁へ突っ込んだ隙に横を駆け抜け、そのまま奥へ向かう。
「グオオオオオオオッ!!」
背後から凄まじい咆哮が響いた。反射的に振り返ると、アーマーベアが追ってきている。
速い。
このままじゃ追いつかれる。
「千紗、先に行って!」
「黎は!?」
「時間を稼ぐ!」
「無理だよ!」
「いいから行って!」
足を止め、ショートソードを構える。怖い。逃げたい。勝てないことくらい分かっている。それでも二人揃って追いつかれれば、もっと最悪だ。
アーマーベアが迫る。
真正面から受けるな。
ギリギリまで引きつけろ。
あと五メートル、三メートル――。
「っ!」
身体を横へ投げ出す。
巨大な身体がすぐ脇を通り過ぎ、巻き起こった風圧が頬を叩いた。
今だ。
「はぁっ!」
通り過ぎたアーマーベアの後ろ脚へ、ショートソードを振り下ろす。
ガキンッ!!
「……え?」
まるで金属を斬りつけたような音だった。刃は僅かに体毛へ食い込んだだけで、その下の肉まで届いていない。
「硬すぎる……」
次の瞬間、アーマーベアが身体を反転させた。
「しまっ――」
巨大な前脚が迫る。咄嗟にショートソードを身体の前へ構えた。
ドガッ!!
「がっ!?」
凄まじい衝撃が両腕を襲った。身体が宙へ浮き、そのまま地面へ叩きつけられる。
「ぐっ……!」
息が詰まる。
ショートソードが手から離れ、地面を滑っていった。
「黎!」
「来ちゃ駄目……!」
身体を起こそうとするが、腕に力が入らない。まともに食らったわけでもないのに、たった一発でこれだ。
「グルルル……」
アーマーベアが僕へ向かって歩いてくる。
剣は数メートル先。
間に合わない。
その時、一本の矢が頭上を通過した。
矢はアーマーベアの肩へ突き刺さり、その巨体が僅かに止まる。
「黎から離れて!」
千紗だった。
「馬鹿! 何して――」
二本目の矢が飛ぶ。
しかし今度は硬質化した体毛に当たり、乾いた音を立てて弾かれた。
「……っ」
千紗の顔が強張る。
そして、アーマーベアの視線がゆっくりと僕から千紗へ向けられた。
「千紗、逃げろ!」
アーマーベアが地面を蹴る。
千紗もすぐさま矢を番えて放つが、焦ったせいか矢は巨体の横を通り過ぎていった。次の矢を取り出そうとした時には、もうアーマーベアが目の前まで迫っている。
「早――」
巨大な前脚が振るわれる。
千紗は咄嗟に横へ飛んだ。
「きゃっ!」
完全には避けられなかった。
鋭い爪が脇腹を掠め、服が裂ける。同時に赤い血が飛び散り、千紗の身体が地面を転がった。
「千紗!」
「っ……痛……」
弓が手から離れる。
千紗は脇腹を押さえながら起き上がろうとするが、上手く力が入らないのか立ち上がれない。
その前で、アーマーベアがゆっくりと振り返った。
「グルルルル……」
「やめろ……」
立て。
早く立て。
腕を地面について身体を起こそうとする。
「ぐっ……!」
駄目だ。
身体が言うことを聞かない。
アーマーベアは倒れた千紗へ近づき、その巨体を持ち上げるように後ろ脚で立ち上がった。
「……っ」
千紗が見上げる。
三メートル近い巨体が、彼女の上に影を落としていた。
「来ないで……」
千紗が地面を這うように後ろへ下がる。その顔には、今まで見たことのないほどの恐怖が浮かんでいた。
「やめろ……!」
アーマーベアが前脚を持ち上げる。
あんなものを食らったら。
死ぬ。
「やめろ……!」
立て。
立てよ。
千紗が死ぬ。
僕の目の前で。
「動けよ……!」
力を込める。
それでも身体は動かない。
アーマーベアの前脚がさらに高く持ち上がる。
「千紗から離れろぉぉぉっ!!」
ドクンッ――。
「……え?」
心臓が大きく脈打った。
次の瞬間、全身を凄まじい熱が駆け巡る。
「ぐっ……!」
熱い。
身体の内側から焼かれているような熱。それなのに、不思議と痛みが薄れていく。
ドクンッ。
もう一度、心臓が脈打つ。
視界が赤く染まった。
動かなかったはずの指先に、力が戻ってくる。
アーマーベアの前脚が振り下ろされる。
「千紗ぁぁぁぁぁっ!!」
その瞬間。
僕の中で――何かが目を覚ました。




