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第3話


 見事に応募した治験バイトに合格した。

 指定された日時、僕は東京青昌大学の研究棟へ足を踏み入れる。

 白を基調とした無機質な廊下には薬品の匂いが漂い、すれ違う研究員たちは皆、忙しそうに歩いていた。


「一ノ瀬黎さんですね」


 声を掛けてきたのは、細身の丸メガネを掛けた男だった。

 三十代後半ほどの年齢だろうか。

 口元には穏やかな笑みを浮かべている。しかし、その笑顔の奥にある感情は読み取れない。


「こちらへどうぞ」


 案内された先は、小さな個室だった。

 中央には病院で見かけるようなベッドが一つ置かれ、心電図やモニターらしき機械が並んでいる。


「では、電極を取り付けます」


 男は慣れた手つきで僕の胸や腕に電極を貼り付けていく。

 冷たいジェルが肌に触れ、思わず肩を震わせた。


「これが今回の試験薬です」


 差し出されたコップの中には、赤黒く濁った液体が入っていた。

 ドロドロとしていて、とても美味しそうには見えない。


「健康への影響はありませんので、ご安心ください」


 まあ、大学の治験なんだ。危ないものを飲ませるわけがない。

 僕は覚悟を決め、一気に飲み干した。


「……うわっ、苦っ」


 鉄のような匂いと、喉にまとわりつく嫌な後味。

 思わず顔をしかめる。


「お疲れ様です。それでは五時間ほど安静にしてください。映画でもご覧になってお待ちください」


 そう言ってスマートフォンスタンドを用意してくれた。

 僕は映画を流しながら、ベッドに寝転ぶ。

 途中で数回、採血と血圧測定を受けた以外は、本当に何もすることがなかった。

 眠くなれば少し眠り、目が覚めれば映画を見る。

 拍子抜けするほど楽な仕事だった。

 五時間後。


「はい、終了です。ご協力ありがとうございました」


 男から封筒を受け取る。中には厚みのある札束が入っていた。

 思わず息を呑む。


「……すごい」


 こんなに簡単に稼げるなんて。


「ありがとうございました!」


 何度も頭を下げ、研究室を後にする。

 帰り道、封筒をポケットにしまいながら思わず笑みがこぼれた。


「五時間寝転がってるだけで、この金額か……」


 こんなバイトがあるなら、また応募したいくらいだ。

 そう考えながら、夕暮れのキャンパスを後にした。



 自動ドアが閉まり、少年の姿が見えなくなる。

 細身の丸メガネを掛けた男は、その背中を無言で見送っていた。

 やがて研究室の奥へ戻ると、机の上の資料に視線を落とす。


「被験者番号二十七……一ノ瀬黎」


 静かな研究室に、小さな笑みが漏れる。


「さて――君は、生き残れるかな」


 モニターには、赤い波形だけが静かに揺れていた。



家に帰宅した僕は、玄関に鞄を置くと、いつものように台所へ向かった。

 棚からお気に入りのスナック菓子を取り出し、袋を開けようとした、その時だった。


「あれ……?」


 手が止まる。食べたいと思えない。胸の奥を探るように意識を向けてみる。

 いつもなら、家に帰った瞬間から何か口に入れたくて仕方がない。夕食まで待てずにお菓子へ手を伸ばすのが当たり前だった。

 なのに今日は違う。

 空腹感が、まるで消えてしまったようだった。


「どうしたんだろ……」


 治験の影響だろうか。

 薬を飲んだ直後は何ともなかったし、医師も健康への影響はないと言っていた。

 少しくらい食欲が落ちることもあるのかもしれない。


「まあ、一日くらいなら、いっか」


 そう呟き、スナック菓子を棚へ戻す。

 ふと時計を見ると、もう夕食に近い時間だった。

 それでも、不思議なくらい何も食べたいとは思えなかった。

 僕は軽く水だけを飲み、そのままベッドへ横になる。

 まぶたを閉じると、体の奥がじんわりと熱を帯びているような気がした。


「……疲れたのかな」


 そう自分に言い聞かせ、ゆっくりと眠りへ落ちていった。

 その時の僕は、まだ知らなかった。

 この日を境に、僕の人生が大きく変わり始めていたことを。




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