第23話
九ヶ月前。
「千紗ー、起きてる?」
コンコン、と二回。返事をするより先に、部屋の扉が開いた。
「……起きてる」
「嘘。今起きたでしょ」
「起きてた」
「じゃあ、その寝癖は何かな?」
ベッドの上で身体を起こした私を見て、お姉ちゃんが笑う。
朝からうるさいなー、まだ眠いのに。
今日は学校だし、あと五分くらい寝ていたかった。
「ほら、早くしないと遅刻するよ」
「分かってる」
「昨日もそう言ってギリギリだったじゃん」
「間に合ったからいいの」
「そういう問題じゃありません」
お姉ちゃんが勝手にカーテンを開ける。
「眩しっ……」
朝日が部屋いっぱいに差し込んできて、私は布団を頭まで被った。
「もう……最悪」
「あはは。おはよう、千紗」
「……おはよ」
毎朝、こんな感じだった。
私より早く起きて、勝手に部屋へ入ってきて、勝手にカーテンを開けて。
いつまでも起きない私を急かす。
鬱陶しいと思っていた。というか、実際に鬱陶しかった。
でも――嫌いだと思ったことは、一度もない。
◇
「千紗、牛乳取って」
「自分で取れば?」
「遠い」
「私の方が遠いんだけど」
「妹はお姉ちゃんを敬うものなの」
「初めて聞いた」
朝食の席。向かいに座るお姉ちゃんへ牛乳を渡す。
「ありがと」
「ん」
何でもない朝だった。
お母さんが台所にいて、お父さんがテレビを見ながらコーヒーを飲んでいて、私とお姉ちゃんがくだらないことで言い合っている。
いつもの朝。ずっと続くと思っていた朝。
「あ、そうだ」
お姉ちゃんが立ち上がった。
「今日、帰るの遅くなるから」
「ダンジョン?」
「うん」
壁に立てかけてあった装備を手に取る。
その瞬間だけ、お姉ちゃんの雰囲気が少し変わった。私のお姉ちゃんから、冒険者の顔になる。
私はそんなお姉ちゃんが好きだった。
学校の友達には言わなかったけど、ちょっと自慢でもあった。私のお姉ちゃんは冒険者なんだぞって。魔物と戦えるんだぞって。
「それ、ずっと着けてるよね」
お姉ちゃんは左手首には、青い宝石が付いたブレスレット。
「大事なものだから」
「高そう」
「値段の話しかできないの?」
「だってお姉ちゃんの趣味にしては珍しいし」
「どういう意味?」
お姉ちゃんが少し頬を膨らませる。
「……また渋谷?」
「そうだよ」
「最近多くない?」
「仕事ですから」
お姉ちゃんが得意げに胸を張る。
「そのうち有名な冒険者になっちゃうかもよ?」
「無理じゃない?」
「酷くない!?」
頬を膨らませるお姉ちゃんを見て、思わず笑った。
「冗談」
「まったく……可愛くない妹だなぁ」
「やめて」
頭を撫でようとしてきた手を払い除ける。
「髪ぐちゃぐちゃになる」
「はいはい」
お姉ちゃんが笑う。
そして玄関へ向かった。
私はそれを追いかけなかった。見送りもしなかった。
いつものことだったから。
「じゃあ、行ってきます!」
玄関から声が聞こえた。
私はスマホを見ながら答えた。
「んー」
それだけ。いってらっしゃい、すら言わなかった。
だって、帰ってくると思っていたから。
夜になれば玄関が開いて、ただいまー、と声がする。
汗臭いまま抱きついてきて、私が「先にお風呂入って」と怒って。
それで明日の朝になれば、また勝手に私の部屋へ入ってくる。
そう思っていた。
だから、あの日の私はお姉ちゃんの顔すら見なかった。
◇
夜になった。
お姉ちゃんは帰ってこなかった。別に珍しいことじゃない。ダンジョン探索が長引くことくらいある。
私はそう思っていた。
十一時。
まだ帰ってこない。お母さんが何度もスマホを確認していた。
お父さんがお姉ちゃんへ電話をかける。
繋がらない……それでも私は大丈夫だと思っていた。
だって、お姉ちゃんだから。
十二時、一時。
お母さんの顔から、少しずつ表情が消えていった。お父さんがどこかへ電話をかけ始めた。
冒険者ギルド、ダンジョン庁、所属しているパーティー。
私はリビングのソファに座っていた。
テレビはついている。
何をやっていたのかは覚えていない。時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえた。
カチ。
カチ。
カチ。
玄関を見る。開かない。
また時計を見る。
玄関を見る。開かない。
(遅い)
スマホを見る。
連絡はない。
(何してるの)
また玄関を見る。
(早く帰ってきてよ)
そのうち、腹が立ってきた。
帰ってきたら文句を言ってやろうと思った。こんな時間まで何してたの。連絡くらいしてよ。
お母さん心配してるじゃん。
そう言って。
それから――。
(……おかえりって言おう)
朝、いってらっしゃいを言わなかったから。
今度はちゃんと言おうと思った。
だから待った。
ずっと、でも、玄関は開かなかった。




