第18話
乱れたベッドのシーツ。
掛け布団の端から、長い黒髪が覗いている。
「んんっ……」
妙に甲高い声が喉から漏れた。
その声に違和感を覚え、薄っすらと目を開ける。
(あれ……風邪引いたかな)
昨日は酷かった。
夜中、突然身体が熱くなった。
全身を内側から焼かれているような熱に何度も目を覚まし、布団の中でひたすら唸っていた記憶がある。
あれは風邪による高熱だったのだろう。
「ふぁあぁ……」
欠伸をしながら身体を起こす。
肩から流れ落ちた長い黒髪が、大きすぎるTシャツの上を滑った。
掛け布団を蹴り飛ばす。
露わになったのは、白く細い二本の脚。
そんな異変にも気づかないまま、俺はベッドから立ち上がった。
「よく寝たな……」
喉に手を当てる。
やっぱり変だ。
声が高い。
「んんっ……あー、あー」
咳払いしてみる。
変わらない。
「やっぱ喉やられてんな」
昨日あれだけ熱が出たのだ。まだ体調が戻っていないのだろう。
それよりもシャワーを浴びたい。昨夜は汗だくだった。身体も気持ち悪い。
部屋のドアノブを捻って廊下へ出る。
「……ん?」
一歩踏み出したところで、妙な感覚があった。
身体が軽い。
それだけじゃない。歩幅がいつもより狭いような気がする。
「なんだ……?」
階段へ向かう。
一段。
二段。
三段。
「……歩きづら」
身体の重心がおかしい。
それに、いつもより階段が大きく感じる。
手すりに手を置いた。
「……?」
自分の手を見る。
なんとなく、小さい気がした。
「熱でフラついてんのかな」
深く考えず、そのまま階段を降りる。
すると。
「……え」
階段の下に弟がいた。
こちらを見上げたまま、完全に固まっている。
「おはよう」
「あ……」
弟が口をパクパクと動かす。
「お、おはようございます」
「……は?」
思わず足を止めた。
なんだ、その挨拶。
「何、急に敬語使ってんだよ」
「えっ」
「気持ち悪いんだけど」
「え……えっと……」
弟は困惑したように俺を見る。
いや、見るというより観察している。
顔。
髪。
身体。
そしてまた顔。
「何だよ」
「いや、その……」
「朝から変な奴だな」
横を通り過ぎる。
背後から視線を感じるが、無視した。昨日の熱で寝込んでいた俺をからかっているのだろうか。
「意味わかんね」
そのまま廊下を歩く。
風呂場へ向かう途中、リビングから母さんが出てきた。
「あら、おはよ――」
言葉が止まった。
「……」
「おはよう」
「……え?」
母さんが固まっている。
またか。
「何?」
「……」
「母さん?」
その瞬間。
母さんの表情が明らかに変わった。
「……え?」
「だから、何だよ」
「あなた……」
母さんが一歩後ろへ下がる。
「誰?」
「は?」
思わず間抜けな声が出た。
「何言ってんの?」
「え……」
「寝ぼけてんの?」
母さんは答えない。
俺を凝視している。
その顔には、困惑と警戒が浮かんでいた。
「おい」
少し腹が立ってくる。
「弟もさっきから変だし、なんなんだよ二人して」
「弟……?」
「ああ。いきなり敬語で挨拶してきたんだよ。気持ち悪いだろ」
「……」
母さんの目が大きく見開かれた。
「あなた……今、私のこと……」
「は?」
「母さんって……」
「呼んだけど?」
「……」
沈黙。母さんの顔から、徐々に血の気が引いていく。
「……翔太?」
「だから何なんだよ!」
思わず声を荒らげる。
高い声が廊下に響いた。自分でも違和感しかない声。
母さんは俺の顔を凝視している。
「あなた……本当に翔太なの?」
「俺以外の誰に見えるんだよ!」
「……」
俺の言葉を聞いた母さんが、口元を手で覆った。
「嘘……」
「何がだよ」
「ちょっと待って……」
「だから何なんだって!」
意味が分からない。弟も母さんもなんでそんな目で俺を見る。
まるで――知らない人間を見るみたいに。
「もういいよ。シャワー浴びてくる」
「待って、翔太!」
母さんの制止を無視して、脱衣所へ入った。
扉を閉める。
「なんなんだよ……」
苛立ちながら頭を掻く。
「……ん?」
指に何かが絡んだ。
黒い糸のようなもの。
髪だ。
「……」
掴み、そのまま引っ張る。
頭皮が引かれた。
「俺の……髪?」
胸元まで伸びている。
「……は?」
昨日まで、間違いなく短かった。
寝る前だって、いつもと同じだった。
「なんで……」
そこでようやく、今朝から感じていた違和感が一気に押し寄せてきた。
声。
手。
身体の軽さ。
歩幅。
弟の反応。
母さんの反応。
「……」
心臓がドクンと大きく鳴った。
恐る恐る自分の手を見る。
白く、細い。
指が長く、爪の形まで違って見える。
「なんだよ……これ」
腕を見る。
細い、明らかに細い。
Tシャツの袖口も妙に余っている。
「……嘘だろ」
昨日の夜。
身体を焼き尽くすような、あの異常な熱。ただの風邪だと思っていた。
だけど。
「……」
視線を上げる。
洗面台、その上にある鏡。
そこへ顔を向けることが、なぜか怖かった。
「……いやいや」
笑ってみる。
「何ビビってんだよ、俺」
そうだ。馬鹿馬鹿しい。
髪が伸びているのだって、何か理由がある。身体がおかしいのだって、熱のせいだ。
そうに決まっている。
俺は顔を上げた。
「……」
鏡の中。
そこに、知らない少女が立っていた。
「……誰だよ」
長い黒髪。
真っ白な肌。
整った鼻立ち。
大きな瞳。
まだあどけなさを残しているものの、見覚えなど一切ない少女。
そいつが青ざめた顔で、俺を見ている。
「……」
右手を上げる、少女も右手を上げた。
頬に触れる、少女も同じ場所に触れる。
「……は?」
一歩近づけば、向こうも近づいてくる。
「誰だよ……お前」
鏡の少女の唇が動く。
俺とまったく同じ言葉を紡ぐ。
甲高い声で。
「……」
身体が震え始めた。
「いや……」
違う、あり得ない。
こんなの。
「嘘だろ……?」
自分の頬を強く抓る。
「痛っ!」
鏡の少女も顔を歪めた。
夢じゃない。
「……」
恐る恐る視線を下げる。
大きすぎるTシャツ。
その胸元。
今まで存在しなかった膨らみが、はっきりとそこにあった。
「……は?」
思考が止まる。
腰に触れる。細い。
脚を見る。白く、細い。
何もかも違う。
「……なんだよ」
膝から力が抜けた。
咄嗟に洗面台へしがみつく。
「なんなんだよ、これ……!」
鏡の中の少女も泣きそうな顔でこちらを見ていた。
違う、こいつは。
「……俺?」
口に出した瞬間、全身に鳥肌が立った。
その時。
「翔太!」
扉の向こうから母さんの声が聞こえた。
「大丈夫!? 開けるわよ!」
「待って!」
反射的に叫ぶ。
「来るな!」
「翔太!?」
「来るなって!」
扉の向こうが静かになった。
俺は再び鏡を見る。何度見ても変わらない。
知らない少女。
でも。
そいつが俺と同じ顔をして怯えている。
「……俺」
震える声が漏れる。
「女になってる……?」
◇
数時間後。
俺は病院の診察室にいた。
隣には父さんと母さん。三人とも、一言も喋らない。
朝から何度も検査を受けた。
採血、レントゲン、MRI。
他にも名前すら知らない検査をいくつも受けさせられた。
そして今、白衣を着た医師がモニターに表示された検査結果を眺めている。
「……」
キーボードを操作する音だけが診察室に響く。
長い、異様に長く感じる沈黙。
「先生」
耐えきれなくなった父さんが口を開いた。
「息子は……どうなってるんですか」
「……」
医師は答えない。
もう一度モニターを確認する。
やがて、こちらへ椅子を向けた。
「いくつか追加検査は必要ですが」
医師が俺を見る。
「現時点の検査結果と、昨夜の症状。そして急激な身体変異を考えれば、診断そのものはほぼ間違いないでしょう」
母さんが息を呑んだ。
「先生……」
「大雲翔太さん」
「……はい」
自分のものとは思えない声で返事をする。
医師は静かに告げた。
「あなたは、魔変症を発症したと考えられます」
「……魔変症?」
いつかのニュースで聞いたことがある言葉だった。
医師が小さく頷く。
「はい」
そして、俺の人生を大きく変える言葉を続けた。
「魔力によって、人間の肉体そのものが変異する病気です」
「……治るんですか?」
俺が尋ねると、医師は僅かに目を伏せた。
「現在の医学では――変異した肉体を元に戻す治療法は確立されていません」




