第17話
夏休みが明け、国立大鷲中学校にもいつもの日常が戻ってきた。
照りつける日差しは未だ夏の名残を色濃く残し、開け放たれた窓からは蝉の鳴き声が騒がしいほどに響いてくる。
「暑っちぃ……」
机に突っ伏した男子生徒が、恨めしそうに窓の外を見る。
「夏休み終わったのに、なんでこんな暑いんだよ」
「知らねーよ。地球に聞け」
「あと一週間くらい休みでよくね?」
「毎年言ってんな、それ」
くだらない会話。教室のあちこちから笑い声が上がる。
休み時間の二年二組は、夏休み前と何も変わらない。
友人同士で机を囲む者。スマートフォンを覗き込む者。次の授業の宿題を慌てて写している者。
そんな中。
「そういやさ」
一人の男子生徒が、ふと教室の後方へ視線を向けた。
「一ノ瀬って、今日も休み?」
その言葉につられ、何人かが同じ方向を見る。
そこには誰も座っていない机があった。
一ノ瀬黎の席だ。
「あー……そういや、最近見てねえな」
「夏休み明けてから一回も来てなくない?」
「病気じゃね?」
特に心配する様子もなく、そんな言葉が飛び交う。
元々、一ノ瀬黎はクラスの中心にいるような人間ではない。
大人しく、目立たない。
運動も苦手で、体育の授業ではいつも一人だけ遅れていた。
だから一人いなくなったところで、教室の日常が変わることはなかった。
「いや」
そんな中、一人の男子生徒が口を挟んだ。
「一ノ瀬、冒険者になったらしいぞ」
「…………は?」
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
「はははははっ!」
教室の一角から笑い声が上がった。
「一ノ瀬が冒険者!?」
「いやいや、無理だろ!」
「お前、それ誰から聞いたんだよ!」
「本当だって!」
笑われた男子生徒がムキになって言い返す。
「俺の兄貴、冒険者やってんだけどさ。夏休みにギルドで見たって言ってたんだよ」
「同姓同名だろ」
「いや、写真見せてもらったから間違いねえよ」
「写真?」
何人かが興味を示し、男子生徒の机へ集まる。
スマートフォンが取り出された。
画面を操作し、写真を表示する。
「これ」
「……」
数人が画面を覗き込む。
「……マジじゃん」
そこに写っていたのは、見慣れた顔だった。
一ノ瀬黎。
場所は東京都中央冒険者ギルド。
遠目から撮影されたものなのか、鮮明とは言えない。
それでも本人だと分かるには十分だった。
そして何より。
「剣……持ってね?」
腰には鞘に収められたショートソード。
普段の制服姿ではない。
動きやすそうな服装に、最低限の防具。
自分たちが知っている一ノ瀬黎とは、どこか違って見えた。
「……コスプレじゃなくて?」
「ギルドで何のコスプレすんだよ」
「でも、資格取っただけじゃね?」
別の男子が言った。
「冒険者って資格だけなら中学生でも取れるんだろ?」
「試験あるぞ」
「一ノ瀬が受かったの?」
「だから、受かったんだろ」
「…………」
また、妙な沈黙が生まれた。
その会話を、少し離れた席で大雲翔太は黙って聞いていた。
「翔太」
「あ?」
「お前、一ノ瀬と結構喋ってたよな?」
「……まあ」
「知ってた?」
「知らねえよ」
短く答える。
「へえ。一ノ瀬、マジで冒険者になったのか」
友人がスマートフォンを眺めながら感心したように呟いた。
「なんか意外だよな」
「つーか大丈夫なのか? あいつ運動できなかったじゃん」
「そのうち辞めんじゃね?」
「ゴブリンに殺されたりしてな」
「それは笑えねえだろ」
くだらない会話が続いていく。
翔太は何も言わなかった。
ただ、写真を見る。
剣を腰に差した黎。その姿に、妙な胸騒ぎがあった。
いや、胸騒ぎというより――。
「……」
翔太は窓の外へ目を向けた。
グラウンドが見える。ふと、夏休み前の体育を思い出した。
炎天下、クラス全員で走ったグラウンド。
誰よりも遅れていた奴がいた。
『今日も相変わらず暑い……』
『はっ、そんな太ってるからだろ』
あの日も、自分は笑った。
一ノ瀬黎。
走るのは遅い、球技もできない。
身体は大きいくせに力もない。何をやらせても人並み以下。
少なくとも翔太にとって、黎とはそういう人間だった。
だからこそ、冒険者になりたいと聞いた時は、冗談じゃないと思った。
黎には無理だ。いや――無理であってほしかった。
ダンジョンなんて場所に、あいつが行っていいはずがない。
なれるわけがない……そう思っていた。
なのに。
「……本当に、なったのかよ」
誰にも聞こえない声で呟いた。
胸の奥が、妙にざわついた。別に羨ましいわけじゃない。
自分だって冒険者になりたいわけではない。
危険なダンジョンに潜って、魔物と戦う。
そんな仕事、頼まれたって御免だ。
これは、そう。恐怖だ。
昔からの馴染みが、自分の知らない危険な場所へ行っている。
自分たちがこうして学校に来て、授業を受けて、くだらない話をしている間に。
一ノ瀬黎は剣を握って、化け物と戦っている。
「……翔太?」
「ん?」
「どうした?」
「別に」
翔太は視線を逸らした。
「資格取ったくらいだろ」
吐き捨てるように言う。
「どうせすぐ戻ってくるって」
その言葉に、友人たちは「だよな」と笑った。
翔太も笑った。
◇
「ほら、走れ! まだ二周目だぞ!」
教師の声がグラウンドに響く。
「無理無理無理!」
「暑すぎるって!」
「死ぬー!」
文句を言いながら、生徒たちが走る。
翔太は集団の前方にいた。昔から運動には自信がある。軽い足取りでカーブを曲がる。
その時、何となく後ろを振り返った。
「……」
誰もいない。
いつもなら、もっと後ろに一人だけ遅れて走っている奴がいた。
汗だくになって、苦しそうに息を切らして。
それでも教師に言われた距離だけは、最後まで走ろうとしていた。
「……チッ」
翔太は前を向いた。
走る速度を上げる。だが、数歩進んだところで。
「……っ?」
足に妙な違和感を覚えた。
一瞬だけ、力が抜けたような感覚。
翔太は僅かによろめき、すぐに体勢を立て直す。
「翔太、どうした?」
隣を走っていた男子が振り返った。
「……なんでもねえ」
そのまま走り続ける。
最近、妙に身体が重い。夏休みで身体が鈍ったのだろう。
翔太はそう考え、それ以上気にすることはなかった。
◇
放課後。
生徒たちが帰り、教室から少しずつ音が消えていく。
窓から差し込む夕陽が、机と椅子の長い影を床へ落としていた。
「……」
翔太は鞄を肩に掛ける。
帰ろうとして、足を止めた。視線の先には、一つの空席。
一ノ瀬黎の席だった。
机の上には、欠席している間に配られたプリントが何枚も積み重なっている。
「……何やってんだよ」
翔太は誰もいない席へ呟いた。
昔からそうだ。
一度決めたら、変なところで頑固になる。
冒険者になると言い始めた時だってそうだった。
何度やめろと言っても聞かなかった。
「本当になりやがって……」
今日見た写真が頭から離れない。
腰に差された剣。
防具。
自分の知らない黎の姿。
「……馬鹿野郎」
翔太は黎の机を軽く小突いた。
「死んだら許さねえからな」
返事はない。
当然だった。
「……帰ろ」
教室を出る。
誰もいなくなった二年二組。
夕陽に照らされた黎の机に、窓から入り込んだ風が吹きつける。
積み重なったプリントの一枚が、ぱらりと床へ落ちた。
その頃にはもう。翔太自身の身体にも、小さな異変が始まっていた。
◇
その日の深夜。
「……うぅ」
眠る翔太が、苦しそうに身を捩った。
暑い。
身体の奥に火でも灯されたように、全身が熱を帯びている。
額には大量の汗が滲み、呼吸も荒い。
「……あつ……」
けれど、翔太が目を覚ますことはなかった。
熱はさらに上がっていく。
心臓が激しく脈打つたび、身体の奥で何かが少しずつ変わっていく。
骨が軋み、輪郭が変わる。これまでの身体が、まるで別の形へ作り直されていくように。
それでも翔太は眠り続けた。
やがて夜が明ける頃。
あれほど身体を蝕んでいた熱は、嘘のように消えていた。
薄暗い部屋。
ベッドの上には、乱れた布団から長い黒髪が覗いていた。
メインヒロインは翔太……。




