第14話
訓練場の隅で、鬼塚克一は腕を組んでいた。
鋭い眼光の先にいるのは、一人の少年。
一ノ瀬黎。
「はぁっ……はぁっ……!」
荒い呼吸を繰り返しながら、それでも黎は前を向いている。
額から流れ落ちる汗を拭う余裕すらない。構えた木剣の切っ先は僅かに震え、足取りにも疲労が見え始めている。
決して優れた動きではない。先ほどの神代蒼真と比べれば、その差は歴然だった。
速くない、鋭くない、洗練されてもいない。
「……」
鬼塚は黙って黎を見つめる。
相手が踏み込み、黎が反応する。半歩下がり、振り下ろされた木剣を受け流す。
直後、体勢を崩した。
「くっ……!」
倒れそうになった身体を、右足を踏み出して強引に支える。そしてすぐに構え直した。
その姿を見て、鬼塚の眉が僅かに動く。
――今の足運び。
一ヶ月前なら、間違いなく転んでいた。
『遅い! 一ノ瀬!』
『は、はいっ!』
『足を止めるな! 止まったら死ぬぞ!』
『はいっ!』
初めて訓練場にやって来た頃の黎を思い出す。それは酷いものだった。
体力も筋力もなく、反応も鈍い。身体の使い方をまるで知らない。
走らせればすぐに息を切らし、剣を握らせれば腕だけで振り回す。受け身を取らせれば背中から地面に叩きつけられた。
お世辞にも、冒険者に向いているとは言えなかった。
『教官』
『なんだ』
『もう一回、やってもいいですか?』
講習が終わった後、他の受講者が帰っていく中で黎だけが残った。
次の日も、その次の日も。
『教官、さっきの避け方なんですけど……』
『腰が引けてる。怖くても重心を後ろに逃がすな』
『はい』
何度も繰り返した。
失敗して、転んで、また立ち上がった。
一度教えた程度で、すぐにできるようになる少年ではない。十回やってもできない、二十回やっても失敗する。それでも三十回目をやる。
そして翌日、昨日よりもほんの少しだけ上手くなっている。
「……」
鬼塚の口元が僅かに緩んだ。
止まらず、考えている。
相手を見て、自分に何ができるのかを必死に探す。
――随分とマシになったじゃねぇか。
たった一ヶ月だ。鬼塚にとって、それは冒険者人生の中では瞬きほどの時間でしかない。
その一ヶ月で、この少年はここまで来た。もちろん、まだ弱い。冒険者として見れば、ようやく入口に立てるかどうかという程度。
神代蒼真のような天才と比べること自体が間違っている。あの少年は別格だ、最初から持っている。才能も、技術も、戦うための身体も。
だが、一ノ瀬黎は何も持っていなかった。だからこそ、鬼塚には分かる。
今、黎が立っている場所まで、どうやって辿り着いたのか。
才能でも、奇跡でもない。こいつが毎日、やったのだ。ただ、それだけ。
だからーー鬼塚は腕を組んだまま、黎を見つめる。
まだだ、こんなものじゃない。
一ヶ月でここまで来たのなら、半年後、一年後。
こいつは、どこまで行く。
「……楽しみじゃねぇか」
誰にも聞こえないほど小さな声が、鬼塚の口から漏れた。
◇
訓練場から少し離れた場所。
一人の男が、黙って試験を見つめていた。
一ノ瀬黎の父親だった。
「……」
何も言えなかった。
ただ、息子を見ている。
「はぁっ……!」
黎が木剣で、相手の攻撃を受け流す。
そして踏ん張る。
「……黎」
無意識に息子の名前が漏れた。
呼び慣れた名前、当然だ。自分の息子なのだから。
生まれたときから、ずっと見てきた。だからこそ、分かってしまう。
あんな動きは、できなかった。昔から運動は苦手だった。走れば、いつも遅かった。
身体を動かすこと自体が得意ではなく、他の子供が当たり前にできることに何倍もの時間がかかった。
何度、悔しそうな顔を見ただろう。何度、諦めそうになる姿を見ただろう。
そのたびに父親として、励ましてきたつもりだった。
無理をしなくていい、できないことがあってもいい。
黎には黎の生き方がある。
そう言ってきた。
だから、冒険者になりたい。そう言い出したときも、反対した。危険だから、黎には向いていないから。お前のためだと。
そう思っていた。
「……」
目の前で、黎が攻撃をかわした。決して綺麗ではない。それでも、かわした。
すぐさま木剣を握り直す。
その姿を見ながら、父は思う。
いつからだ。いつから、あんな動きができるようになった。
どんな練習をした。誰に教わった。何度失敗した。何度転んだ。何度、悔しいと思った。
「……俺は」
知らない。
何も知らなかった。
この一ヶ月、黎が何をしていたのか。どれほど頑張っていたのか。
何も、胸の奥が痛んだ。息子のことを心配しているつもりだった。息子の将来を考えているつもりだった。
父親だから、大人だから、黎より世の中を知っているから。
だから自分の判断は正しいのだと、どこかで思っていた。
――違う。
ただ、向き合っていなかっただけだ。
『僕、冒険者になりたい』
何度も聞いた言葉。そのたびに否定した。
危険だ、やめておけ、他の道を探せ。では、自分は一度でも聞いただろうか。
なぜ、そこまで冒険者になりたいのか。何を目指しているのか。
そのために、何をしているのか。
息子の言葉を。
息子の夢を。
真正面から聞こうとしたことが、一度でもあっただろうか。
「……」
父は俯いた。
父として恥ずかしかった。息子を守ることばかり考えて、いつの間にか、息子が自分で歩き始めていることに気づかなかった。
顔を上げる。
「はぁっ……はぁっ……」
黎がいる。
汗だくになって、苦しそうに息をしながら。それでも、木剣を握っている。
その姿に、幼い頃の黎が重なった。
小さかった頃、自分の後ろを必死についてきた。
転べば泣いた。できないことがあれば、悔しそうに唇を噛んだ。
そんな子供だった……なのに。
「……そうか」
父の声が震えた。
ようやく分かった。
この子は。
「……頑張ったんだな」
一ヶ月、自分の知らないところで。
誰にも強制されず、自分で決めた夢のために。
きっと、たくさん失敗した。たくさん恥をかいた。何度も苦しい思いをした。それでも今日まで続けてきた。
そうでなければ、あんな黎が今ここにいるはずがない。
「……っ」
視界が滲んだ。
父は瞬きをする。
おかしい、汗でも入ったのかと思った。
だが、頬を伝ったものは止まらなかった。
「……はは」
小さく笑った。
何を泣いているんだ、まだ試験は終わってもいない。息子は必死に戦っているというのに。
それでも、涙が止まらなかった。
嬉しかった。ただ、嬉しかった。
強くなったことじゃない。冒険者になれることでもない。
自分で決め、自分で努力し、自分の足でここまで来た。
そんな人間に息子が成長してくれたことが、たまらなく嬉しかった。
父は目元を拭った。
そして、もう一度黎を見る。先ほどまでとは違う。もう、心配ばかりしている父親の目ではなかった。
一人の人間が、自分で選んだ道を進んでいる。
その姿を、ただ見届ける。
「頑張れ」
小さく呟く。
「頑張れっ」
届くはずのない声は、次第に大きくなっていった。
「頑張れ、黎!!」
◇
父は知らない。訓練場の反対側で、一人の教官が黎を見つめていることを。
鬼塚も知らない。遠く離れた場所で、一人の父親が息子の成長に涙していることを。
二人は言葉を交わさない、互いの名前すら知らない。
ただ、それぞれ違う場所から一ノ瀬黎という少年を見ていた。
一人は、その成長を喜び。
一人は、その未来を信じて。
そして当の本人は、そんなことなど知る由もなく。
「――まだっ!」
ただひたすらに、目の前の試験へ食らいついていた。




