第12話
静まり返った訓練場。
誰も言葉を発さない。
神代蒼真が握る刃は、細木の首筋に触れていた。
「……」
「……」
先に動いたのは細木だった。
「……ふふっ」
小さく笑う。
そして両手を上げた。
「参ったわ」
その一言をきっかけに、張り詰めていた空気が一気に弾ける。
「う、嘘だろ……」
「勝ったのか?」
「D級冒険者だぞ……?」
周囲から次々と驚愕の声が上がった。
当然だ、D級。冒険者について詳しくない人間なら、その凄さを理解できないかもしれない。
冒険者資格を取得した者は、まずF級から始まる。そこから実績を積み、ダンジョン庁の定めた昇級基準を満たして、ようやくD級へ上がる。D級は一人前の証、1人で鬼であるオークを狩れる技量を持つ。
つまり細木さんは、僕達が今から立とうとしている場所より、遥か先にいる人間だ。
その人に――。
「勝った……」
僕は呆然と蒼真を見る。
僕を一瞬で倒した男、強いことは分かっていた。
でも。
(ここまでなのか……?)
蒼真が短剣を下ろす。
息は僅かに乱れている。額には汗が滲み、制服の一部も裂けていた。
決して楽な勝負ではなかった。
それでも最後に立っていたのは蒼真だった。
「合格でいいな」
蒼真が当然のように尋ねる。
「あらぁ?」
細木さんの眉がピクリと動いた。
「生意気ねぇ。お姉さんに刃物を突きつけておいて、その態度?」
「試験だろ」
「可愛くなーい!」
先ほどまでの張り詰めた空気が嘘のように消える。
細木さんは頬を膨らませながら、手元の名簿に何かを書き込んだ。
「神代蒼真ちゃん――合格♡」
「ちゃんはやめろ」
「じゃあ蒼ちゃん?」
「殺すぞ」
「こわぁい♡」
蒼真は心底面倒そうな顔をして、こちらへ戻ってくる。
受験生達が無意識に道を開けた。
誰も蒼真に話しかけない。
いや、話しかけられない。
その視線には、先ほどまでとは明らかに違うものが混じっていた。
畏怖。
僕も同じだった。
すれ違う。
「……すごいな」
思わず声をかけた。
蒼真が足を止める。
「何が?」
「細木さんに勝っただろ」
「だから?」
「だからって……」
蒼真は僕を見る。
「別に勝ってない」
「え?」
「あいつは木剣だった。俺も短剣を隠してた。それに――」
一瞬、細木さんを見る。
「殺し合いなら、どうなってたか分からない」
それだけ言って、蒼真は僕の横を通り過ぎた。
「……」
勝ったのに。
自慢するどころか、自分と相手の差を冷静に分析している。
僕とは何もかも違う。
ふと、昨日のセリナの言葉が蘇った。
――貴方には、お父様のようになれない。
「……分かってるよ」
小さく呟く。
僕だって分かっている。雷斗叔父さんのような人間が、どれほど遠い存在なのか。
蒼真を見れば嫌というほど分かる。
僕は蒼真にすら勝てない。
その蒼真が、本気で戦ってようやくD級冒険者と渡り合える。
今の僕が雷斗叔父さんの背中を語るなんて、笑われても仕方がない。
だけど、拳を握る。
(だからって……)
諦める理由にはならない。
「それじゃあ次、いくわよー!」
細木さんの声が響く。
僕は顔を上げた。
「次の受験者は――」
お願いだから僕じゃありませんように。
まだ心の準備ができていない。
せめてあと三人。
いや、二人でもいい。
蒼真の後だけは――。
「一ノ瀬黎ちゃん♡」
「……」
神様。
僕、何かしましたか。
「一ノ瀬ちゃーん?」
「……はい」
重い足を前へ出す。
周囲から同情するような視線を感じた。
「うわ……」
「神代の次かよ」
「可哀想に……」
聞こえてるからやめてほしい。
一歩。
また一歩。
さっきまで蒼真と細木さんが激しく斬り合っていた場所へ向かう。
床には無数の傷が残っている。
その一本一本が、嫌でも先ほどの戦いを思い出させた。
「よろしくお願いします」
細木さんの前で頭を下げる。
「あら、礼儀正しいのねぇ」
「……普通だと思います」
「そうでもないわよぉ?」
細木さんがチラリと蒼真を見る。
「最近の若い子は怖いんだから」
「聞こえてるぞ」
「あら、地獄耳♡」
細木さんは笑いながら木剣を拾い上げる。
そして僕へ向き直った。
「一ノ瀬黎ちゃん」
「はい」
「鬼塚ちゃんから聞いてるわよ」
「……え?」
思わず顔を上げる。
「鬼塚教官から?」
「ええ」
細木さんは名簿へ目を落とす。
「講習が終わっても毎日残って、一人で練習してたんですって?」
「……はい」
「一ヶ月前は、まともに走ることすらできなかった」
「……」
「剣を振ればすぐ息切れ。受け身もできない。体力もない。戦闘経験もない」
容赦ない。
全部事実だけど。
「鬼塚ちゃん、随分酷いこと言うわねぇ」
「本人にも言われてます……」
「あら可哀想♡」
細木さんがクスクス笑う。
でも、その目が僕を見る。
「それでも、一度も講習を休まなかった」
「……」
「だから少しだけ興味があったの」
木剣が持ち上がる。
「あなたが、この一ヶ月でどこまで変わったのか」
空気が変わった。
さっきまでふざけていた人とは思えない。
僕も訓練用の剣を構える。
手が震えていた。
怖い、当たり前だ。目の前にいるのはD級冒険者。
蒼真と本気で斬り合った人だ。僕なんかが勝てる相手じゃない。
勝てるわけがない。
だけど――ゆっくりと息を吐く。
鬼塚教官の声が蘇る。
足。
腰。
呼吸。
相手だけを見るな。
距離を見ろ。
逃げ道を見ろ。
自分にできることを考えろ。
この一ヶ月間。
何度も転んだ。
何度も吐いた。
何度も立てなくなった。
それでも毎日、ここに来た。
今日のために。
「準備はいい?」
「……はい」
剣を握り直す。
「お願いします」
細木さんが笑った。
「いい顔するじゃない」
そして――。
「始め!」
試験開始の声が響いた。
僕は、一歩も動かなかった。




