第6話:『スポットライトと、新しい鍵』
「先生! 『サックスと赤いバス』に続く新作『風の選択肢』の発売日が決定しました。文藝春秋からの超大型企画として、初版から異例の発行部数で勝負いたします!」
リビングの陽だまりの中で、担当編集者の佐藤さんが珍しく声を弾ませて報告してくれた。
大きな観葉植物の青々とした葉影、お気に入りのヨギボーに深く埋もれながら、私は「あらら、そんなにたくさん刷って大丈夫なのかしらぁ」と思わず苦笑いが浮かぶ。
ロンドンの街角で出会ったサックスの留学生の男の子、W受験を駆け抜けた子どもたちの情熱、そして前の家での生活でなんとなく漂っていた重い記憶の気配を払拭すべく手に入れた、この都内マンションでの新しい暮らし。私がこの「聖域」で膝の上のノートPCに向かい、夢中で紡ぎ上げた物語が、もうすぐ世の中に届こうとしている。
「……で、先生。もう一つ、重大なご報告がございます」
佐藤さんがすっとメガネの位置を直し、隣のソファに座る人物へ視線を向けた。
変装用のサングラスを外し、いたずらっ子のようなドヤ顔を浮かべているのは、B:DASHのレンくんだ。
「薫さん! 俺、マンションの審査も事務所の許可も全部通りました! 二つ上のフロアの部屋、契約完了でです!」
「あらあら! レンくん、本当に引越してくるの!?」
「はい! これでライブ終わりの遅い日でも、薫さんの美味しいご飯にすぐあやかれます!」
都内へ引越してきてから我が家への出没率が急上昇していたレンくんだったけれど、まさか同じマンションの住民になってしまうなんて。
「これでセキュリティも万全、移動時間もゼロです。追加公演に向けたレッスンに集中していただけます」と満足気な佐藤さん。なぜだかレンくんのマネージャーにまでなってしまいそうな勢いの佐藤さん。なんとなく我が家の周りが、ますます賑やかになりそうな予感。
◇
そして迎えた週末。
都内にあるライブハウス『Club ASIA』の楽屋裏は、独特の熱気と緊張感に包まれていた。
今日は、大学に入学した結が結成した新しいバンドの初ライブだ。
高校時代にソロのシンガーソングライターとして地方ツアーという目標をやり遂げた結。今回は4人編成のバンドで、ベース兼メインボーカルとしてステージの中心に立つ。
自らベースの太い低音を刻みながら、メインボーカルとして歌い上げるという新しい挑戦。楽屋のドアの隙間から見えた結の表情には、凛とした心地よい緊張感が漂っていた。
「結ちゃん、落ち着いて楽しんでおいで。ベース弾きながら歌うの、慣れるまで大変やったろ。でも結ちゃんのベースボーカル、めちゃくちゃカッコいいから絶対大丈夫」
変装して楽屋へ駆けつけてくれたレンくんが、優しく結の肩を叩く。プロとして世界で戦うレンくんの言葉は、何よりの守り神だ。
「うん! レン兄、ありがとう。……私、ベースも歌も、今の私の音を全力で届けてくる!」
結は手に持ったスマホの画面をそっと見つめていた。ロンドンのサックスの男の子から届いた『初ライブ、成功を祈ってる。遠くから応援してるよ』というメッセージ。スマホの画面をそっとなで、結は光の差すステージへと飛び出していった。
暗転したステージに、一筋のスポットライトが照射される。
結が繰り出した重厚でグルーヴィーなベースライン。それに乗せて、結の伸びやかで芯のある歌声を放った瞬間、会場の空気が一変した。
自ら鳴らす低音とブレない歌声が重なり合って解き放たれる圧倒的な存在感。ドラムとギター、そしてキーボードがそこに合流し、新バンドの爆発的なサウンドがフロアを激しく揺らした。
「結ーーー……すごいよ……」
客席の後方で両手を握りしめながら、私の胸は熱く震えていた。
ベースを激しく弾きながら、あんなにも堂々と、伸びやかに歌い上げるなんて。ソロの時とも違う、新しい仲間たちの音と一緒に、私の知らないところへどんどん遠く、高く響いていく。
眩しいスポットライトを浴びる娘の成長が愛おしくて、誇らしくて、私の目からは温かい涙が溢れて止まらなかった。
◇
ライブは大成功で幕を閉じ、鳴りやまない歓声の中で結は弾けるような笑顔を見せていた。
終演後の楽屋では、「結、めっちゃかっこよかったた!!!ベース弾きながらあんな歌えるのマジで凄すぎるよ!!」と目を輝かせる蓮と、「最高のベースボーカル誕生だな!」と絶賛するレンくん。真衣も愛おしそうにカメラのシャッターを切っている。
新作の出版決定、レンくんの引っ越し、そして結の新しいバンドでの輝かしい船出。
新しいマンションの窓から見上げる都内の夜空はどこまでも澄み渡り、私たちの未来を優しく照らしてくれていた——。今日も月が綺麗。もうすぐ満月だわ。




