第4話:『陽だまりの風と、真新しいページの響き』
都内の新しいマンションに引越してから、あっという間に1ヶ月が過ぎた。
朝、ベランダの窓を開けると、やわらかな光と爽やかな風がすうっとリビングを吹き抜けていく。高層階から見渡す都会の空は驚くほど広くて、胸の奥までスーッと新しい空気が満ちていくのがわかる。
(ああ、本当によかった……)
前の家も子どもたちを育てた思い出の場所だったけれど、どこか隅っこに元夫の残像や重たい気配が残っていて、知らず知らずのうちに私や子どもたちの肩に小さな重石をのせていたのかもしれない。
元夫の影が落ちる場所を抜け出したこの光にあふれた部屋には、そんな過去の陰りはひとかけらもない。
「よしっ、今日も朝練行ってきます!」
高1になり、都内の陸上強豪高校へ進学した蓮が、真新しい練習着と大きなスポーツバッグを担いで、眩しい笑顔でドアを開ける。近くの大きな陸上競技場や高校のグラウンドで走るのが楽しくてたまらないらしい。
「蓮、気をつけてね! いってらっしゃい!」
結も大学1年生になり、講義と新しい音楽活動を楽しそうに並行させながら、充実した大学生活をスタートさせた。
そして大学3年生になった真衣は、自分の将来や就職活動について少しずつ考え始めながらも、相変わらず頼もしい長女として家族のアルバムを整理したり、下の子たちの相談に乗ってくれたりしている。通学時間も短くなって、自分の時間をとても豊かに使えているようだ。
子どもたちが過去の呪縛から完全に解き放たれて、自分の足でどこまでも遠くへ走っていける場所。私が「なんとなく」求めていた未来は、まさにこの空間だったのだと思う。
◇
執筆の区切りがついたところでヨギボーから体を起こし、キッチンへ向かう。
ハンドミルで豆を挽くカリカリという心地よい音と、お湯を静かに注ぐとふわりと立ち上る香ばしい湯気。
実はこのハンドドリップコーヒー、都内に引っ越してきてから新しくハマった私の密かな趣味なのだ。近所のロースタリーショップでいろんな産地の豆を試したり、丁寧にお湯を落とす時間を楽しんだり……そんな小さなゆとりが、今の私の生活を豊かに彩ってくれている。
自分好みの深煎り豆でじっくり淹れたコーヒーが入ったマグカップを手に、リビングの一角へ戻る。日当たりの一番良い場所にセッティングしてもらった、私のお気に入りの「聖域」。
青々とした大きな観葉植物たちに囲まれながら、長年愛用しているヨギボーにふにゃりと身体を沈めると、吸い込まれるような安心感に包まれる。
「う〜ん、やっぱりこのクッションと緑、そして淹れたてのコーヒー!最高の組み合わせ〜」
コーヒーをひとくち味わい、膝の上にノートPCをちょこんと乗せてキーボードの上に指を滑らせる。
『サックスと赤いバス』の大ヒットを経て、いま私が向き合っている新しい物語。テーマは『選択する若者たちと、それを見守る家族の物語』だ。
ロンドンの街角で響いていた、あの留学生の青年のまっすぐなアルトサックスの音色。W受験を乗り越えて、高校生・大学生として自分の足で一歩を踏み出した結と蓮の頼もしい背中。大学3年生になり大人への階段を上る真衣の優しい眼差し。そして、いつでも温かく家族を支えてくれるレンくんや佐藤さんの存在。
胸の奥からあふれ出てくる愛おしい感情が、軽やかな言葉になって画面を埋めていく。
「先生、失礼します。新刊の販売スケジュールとプロモーション案をお持ちしました」
静かにドアを開けて入ってきた佐藤さんが、整えられた資料をテーブルに置いてくれた。
「お疲れさま、佐藤さん! いつもありがとう……でも佐藤さん、先週も3日くらい来てくれてたわよね? 編集部のお仕事、忙しいのに大丈夫?」
私が少し心配になって尋ねると、佐藤さんはメガネのブリッジをすっと押し上げ、完璧な笑みを浮かべた。
「ご心配なく、先生。編集部での会議や事務作業はすべて超高効率化して最短で完了させております。移動中の車内でも校正やメール処理は済ませてありますので。何より、いまやうちの社でも売れっ子作家である薫先生の執筆環境を完璧に整え、最高の原稿を出していただくことこそが、僕の担当業務における最大のコアミッションですから」
「売れっ子って…なんだか照れるわね! でも、ほんとさすが佐藤さん、隙がないのねぇ」
「先生が心地よい空間でご家族と笑顔で過ごし、お気に入りの場所で最高の物語を紡いでいただく。そのためのサポートであれば、僕はどれだけでも時間を捻出いたしますよ」
自信と誇りに満ちた佐藤さんの言葉に、私は思わずくすっと笑ってしまった。本当にどこまでも頼もしい、我が家の「影の超優秀マネージャー」さんだ。
「ふふふ、佐藤さんがこの素敵なお部屋を見つけてくれたおかげよ。子どもたちの笑顔が増えて……私、いま本当に幸せ」
マグカップを両手で包み込みながら、もうひとくち口に含む。深いコクと温かさが、心地よく身体に染み渡っていく。
夕方になると、防音室の少し開いたドアから大学から帰宅した結がキーボードを弾きながら歌を口ずさむ声が心地よく聴こえてる。
「ただいまー!」と汗をいっぱいかいて帰ってくる高1の蓮の元気な足音がする。
「ママ、また新しい豆買ったの? コーヒー淹れてあげようか?」とノートPCを開きながら優しく声をかけてくれる真衣の気配。
過去の傷も、重たかった記憶も、全部この陽だまりの風と淹れたてコーヒーの香りが遠くへ連れ去ってくれた。
私は観葉植物の葉っぱからこぼれる光を浴びながら、愛おしい家族の足音と推しの歌声から得る栄養、そして頼もしい編集者に見守られながら、また一つ新しい未来の物語を紡ぎ始めていた——。




