第17話:『予言の旋律と、それぞれのスタートライン』
【語り:真衣】
ロンドンから帰国して数ヶ月。季節は巡り、満開の桜が舞う春がやってきた。
玉木家には、ふたつの大きな「始まり」が同時に訪れようとしていた。
ひとつは、ママがロンドンの風とあのサックスの留学生、そしてB:DASHの熱狂を注ぎ込んで書き上げた新作小説『サックスと赤いバス』の単行本発売。
そしてもうひとつは、高3に進級する結が「本気で自分の歌と向き合う」と決意して挑む、ソロのシンガーとしての初アコースティックライブの開催だった。
◇
発売日当日。我が家にやってきた佐藤さんは、装丁が仕上がったばかりの新刊をリビングのテーブルにそっと置いた。重厚なロンドンの街並みと、黄金色に輝くサックスが描かれた美しいカバーだ。
「先生、おめでとうございます。初版の売れ行きも絶好調で、すでに重版が決定しました。全国の書店から悲鳴のような注文が届いていますよ」
「ほんとに?! 重版だなんて、本当にありがたいわぁ」
落ち着いた声で報告する佐藤さんだったが、その瞳は誇らしげに輝いていた。読者や書評からは『まるで現地で彼らの息遣いを聞いているかのような臨場感』『魂を揺さぶる最高の音楽小説』と大絶賛の嵐。ママが「なんとなく」紡ぎ始めた予言の物語は、いまや全国の読者の心を打ち鳴らしていた。
「ほんと、薫さんの本はすごいわ。俺らB:DASHのメンバーも全員回し読みして、楽屋で泣きましたもん」
変装して遊びに来ていたレンくんも、感無量といった様子で新刊を撫でている。
◇
そんな熱気の中、週末には結のソロライブが開催された。
高校最後の1年を迎えるにあたり、受験勉強との両立に悩みながらも、結は「ロンドンで受けたあの衝撃を、自分の声で表現したい」と、放課後や休日をすべて発声練習や作詞作曲に捧げてきたのだ。
ライブハウスの静かなステージ。暗転ののち、スポットライトが結を一本の光として浮き彫りにする。
アコースティックギターの静かな伴奏に乗せて、結がマイクに向かって息を吸い込んだ。
響き渡ったのは、伸びやかで透明感がありながらも、胸の奥をギュッと締め付けるような力強い歌声。
それはかつて「趣味で歌うのが好き」だった頃の声とはまるで違っていた。ロンドンの『シェパーズ・ブッシュ・エンパイア』で浴びたB:DASHの熱量、コヴェント・ガーデンで出会ったサックスの青年の情熱。それらすべてを吸い上げた結の「声」は、たった一人で会場全体の空気を一変させる圧倒的な存在感を放っていた。
「結……すごい……!」
最前列で観ていた私と蓮は思わず息をのんだ。客席の後方では、変装したレンくんが「更にいい歌歌うようになったやん……!」と目頭を熱くしながら目を細め、隣の佐藤さんも深く満足そうに頷いている。
そしてママは、胸の前で手をギュッと握りしめ、涙で瞳を潤ませながら、一人のソロシンガーとして力強く歌い上げる娘の姿をじっと見つめていた。
最後のフレーズが消え渡り、割れんばかりの拍手と歓声が会場に降り注ぐ。
マイクの前で深くお辞儀をし、眩しい笑顔を見せる結の表情には、もう迷いはなかった。
ライブ後の控え室前で、ママは結を優しく抱きしめた。
「結ーー、最高のライブだった!あなたの歌声、ちゃんと心に届いたよーーーー」
「ママ……ありがとう! 私、高3になっても歌うことを絶対に辞めない。もっともっと自分の声を磨いて、いつか世界中で歌ってみせる!」
高3という人生の分岐点に立ちながら、自分の声で未来へと力強く踏み出した結。
新作の大ヒットに包まれるママと、陸上でさらなる記録を目指す蓮、そして世界へ挑み続けるレンくん。
誰もが自分のスタートラインに立ち、新しい風に向かって走り出していた——。
私はどこへむかっていこう。




