第16話:『ロンドンの風と、新しい私の音』
【語り:真衣】
佐藤さんが合流してからのロンドン取材旅行は、まさに「魔法の絨毯」に乗っているようだった。
「先生、午前中は大英博物館を巡り、午後はテムズ川のクルーズ船からビッグ・ベンとロンドン・アイを臨むルートをご用意しました」
地図と時刻表を完璧に把握した佐藤さんの無駄のないエスコート。
昨日までの「迷子とジェスチャーの大冒険」も楽しかったけれど、肩の力がすっかり抜けたママは、心からロンドンの景色と空気を噛みしめるように楽しんでいた。
「見て、真衣! あの赤い電話ボックス、すごく絵になるわね」
「うわぁ、スコーンにクロテッドクリームたっぷりの紅茶……美味しい〜!」
タブレットを手に、気になった路地や歴史ある建物の装飾を嬉しそうに書き留めていくママ。そんな中、コヴェント・ガーデンの広場を歩いていた時のことだった。
重厚な石造りの建物の広場に、どこか切なくも力強い、ジャジーな旋律が響き渡っていた。人ごみの中心でアルトサックスを吹き鳴らしていたのは、10代後半くらいの日本人の男の子だった。
黄金色に輝くアルトサックスから放たれる音色は、異国の冷たい風を溶かすように伸びやかで熱い。道行く外国人たちが足を止め、リズムに合わせて体を揺らし、ケースにコインを投げ入れていく。
その光景に、結が釘付けになった。昨夜のB:DASHの圧巻のステージ、そして今目の前で異国の風を受けながら自分の音を世界にぶつける彼の姿。結の胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音が聞こえた。
「すごい……言葉なんてなくても、サックス一本で世界と繋がってる……」
その男の子の真剣な横顔をじっと見つめていたママが、ふと首をかしげて呟いた。
「……あれ? あの子、なんとなく見覚えがあるわ……」
「え? ママ、知り合いなの?」と私が尋ねると、ママは小さく頭を振って「ううん、会ったことはないはずなんだけど……」と、自分のノートをそっと撫でた。
ママが日本で「なんとなく」書き始めていた新作——『ロンドンに留学している男の子』のプロット。その脳内に描かれていた少年と、いま目の前でサックスを吹く彼が、あまりにも重なっていたのだ。
演奏が終わり、大きな拍手が湧き起こる中、結は吸い寄せられるように男の子のもとへ駆け寄った。
「すっごく素敵なサックスでした! 私も日本で音楽をやっていて……今日、本当に勇気をもらいました!」
「本当? ありがとう! 独りで渡英して最初は怖かったけど、音を出せば世界は応えてくれるって最近やっと気づいたんだ。君も自分の音、楽しんでね!」
彼の眩しい笑顔と温かい言葉。
もうすぐ高3を迎える結の瞳には、ただ「楽しんで部活や歌をやっている女子高生」ではない、一人の表現者としての強い光が灯っていた。
◇
そして、あっという間に過ぎ去ったロンドンでの数日間。
機内から見下ろすロンドンの街並みに別れを告げ、私たちは無事に日本へと帰国した。
日常に戻った玉木家だったが、みんなの胸の中には、あの日ロンドンで吹いていた風が確かに残り続けていた。
帰国後のリビング。私はロンドンで撮りためた大量の写真データをパソコンに取り込み、アルバムの整理に追われていた。写真の中の家族は誰もが眩しい笑顔で、あの大冒険が夢ではなかったことを教えてくれる。家族の思い出をこうしてひとつの形に編み込んでいく時間が、長女である私にとっては何より愛おしかった。
デスクに向かうママは、「あのサックスの男の子」をモデルにした新しい物語の執筆に夢中になっている。そのペン先は今まで以上に軽やかで鮮やかだ。
陸上部の蓮は、「僕も次の大会で絶対に自己ベスト更新する!」と、今まで以上にグラウンドで汗を流している。
そして、結は——。
部屋で楽器を抱え、ロンドンで出会った音やインスピレーションを形にするため、夢中で新しいフレーズを弾き込んでいる。その音色は以前よりもずっと力強く、聴く人の心を揺さぶる深みを増していた。
「みんな、本当に素敵な体験をして、ひとまわり大きくなったわね」
淹れたての紅茶を手に、リビングで子どもたちを眺めるママ。
写真の整理の手を止め、ふと窓の外を見やると、東京の空にもどこかロンドンで感じたような自由で爽やかな風が吹き抜けている気がした。
家族それぞれが自分の足で未来へと歩み出している。その温かい変化を一番近くで見守れる幸せを噛み締めながら、私は静かに胸の高鳴りを感じていた——。




