第10話:『風を渡る予言と、ふたりのランナー』
【語り:真衣】
ママの体調が少しずつ落ち着いてきた、大会前夜の金曜日。
リビングの緑のヨギボーの上には、ママが倒れる直前まで夢中で向かい合っていた一冊のキャンパスノートが残されていた。何気なく開くと、そこに描かれていたのは海外の古い劇場(ロンドンの『シェパーズ・ブッシュ・エンパイア』)と、ステージで汗を散らす青年の姿——京都の八坂神社でママが書いた『いつか海外でレンのライブが生で見たい』という願いと、見事に重なる世界観だった。
「これ、単独ロンドン公演の候補地と全く同じや……! なんで薫さん、行ったこともないはずの劇場の内部、こんな細かく知っとるん……!?」
夕方、変装してやってきたレンくんもノートを見て鳥肌を立てていた。当のママは「あ〜、それ〜? 夜中に外国の古い映画観てたらなんとなく浮かんじゃってさ〜」と呑気にあくびをしているけれど、ママの『なんとなく』の言葉は、いつもこうして未来を引き寄せてしまうのだ。
そんなノートの不思議に浸っていたところで、明日の蓮の陸上大会の話題になった。
「よーし! 明日はママも早起きして、蓮のお弁当作って、応援に行かなくっちゃ!」
ママのその一言に、私と結は思わず顔を見合わせた。
「ちょっとママ、ダメに決まってるでしょ! 退院したばかりなんだから!」
「そうだよママ! 熱は下がったけど、まだ顔色だって本調子じゃないんだから、明日のお留守番は決定!」
結と二人で大反対するけれど、ママは珍しく頑固だった。ソファーでブランケットに包まりながら、口を尖らせる。
「嫌だ〜! 蓮が毎日汗だくになって練習してたの、知ってるんだもん! ママ、絶対に現地で応援したいの!」
「でも、万が一また倒れたらどうするのよ! 競技場なんて日差しも風も強いし……!」
押し問答になっているところへ、夕飯の差し入れと明日の打ち合わせを兼ねて、佐藤さんが訪ねてきた。
「こんばんは……おや、何か揉めていますね?」
事情を説明すると、佐藤さんは少し困ったように眉を下げたが、やがて優しく目元を緩めた。
「真衣ちゃん、結ちゃん。お母さんを心配する気持ちはすごくよく分かるよ。でもね、先生のこういう時の頑固さは止められないのも知ってるでしょう?」
「佐藤さん……」
佐藤さんは、ソファーに座るママの前にそっと膝をつき、目線を合わせて静かに語りかけた。
「先生。まだ本調子じゃないんですから、無理は禁物ですよ。……でも、どうしても行きたいなら、明日僕が車を出します。現地でも僕が付き添って責任を持ってケアしますから。それなら、真衣ちゃんたちも安心でしょう?」
「佐藤さん……! お休みの日なのに本当に? ありがとう〜っ!」
「その代わり、少しでもしんどくなったらすぐ車で休むこと。約束ですよ」
「はいっ!」
幼い頃からずっと我が家を支えてくれた佐藤さんの、圧倒的な頼もしさと優しさ。前夜のうちにこうして完璧な段取りを整えてくれたおかげで、私と結も「佐藤さんが一緒なら……」と許すしかない。
ただ一人、帽子を深めにかぶったレンくんだけが、そのやり取りを横で見ながら拳を握りしめていた。
(……くっそう、あのオッサン! どこまで気が利くんだよ……! 薫さんの『行きたい』を完璧に叶えて、娘たちの不安まで解消させるとか、完璧すぎるやろ……!!)
◇
翌朝。快晴の秋空の下、競技場。
佐藤さんの運転する車で快適に到着した私たちは、風の当たらない観覧席の良席に陣取った。
佐藤さんはママの背中にクッションを挟み、温かい紅茶の入った保温ボトルを手渡す。至れり尽くせりのサポートに、ママは「ふふ、なんか佐藤さんお母さんみたい。佐藤しんのおかげで超快適だわ」と嬉しそうだ。
やがてアナウンスが響き、トラックのスタートラインにユニフォームを着た蓮が姿を現した。
最前列で応援する私たちの姿——そして、体調を押して駆けつけてくれたママと、それをしっかり支える佐藤さん、帽子を目深にかぶったレンくんの姿を見つけ、蓮の目がキッと引き締まった。
『位置について——』
(ママも体調悪いのに応援に来てくれた。佐藤さんも、レン兄も……みんなが僕を見てくれてる。……なら、僕は!)
『用意——』
バンッ!
号砲とともに、蓮が爆発的なスタートを切った。
トラックを力強く蹴り上げ、風を切って突き進む。
「行けぇぇぇ!! 蓮ーーっ!!」
レンくんが帽子が脱げそうになるのも構わず、観覧席から身を乗り出して叫んだ。
「蓮! 走れーーっ!!」
ママも立ち上がり、声を限りに黄色いエールを送る。佐藤さんも隣で「そのまま駆け抜けろ、蓮くん!」と熱く声を張り上げた。
みんなの声援を背中に受け、蓮は圧巻の走りで見事1着でゴールテープを駆け抜けた。
電光掲示板のタイムを見た蓮は、眩しい笑顔で観覧席の私たちに向かって拳を突き上げた。ママは涙ぐみながら拍手を送り、レンくんは大はしゃぎで蓮の結果を称えた。
◇
その日の夜。
玉木家の食卓には、蓮の自己ベスト更新とママの快方を祝って、佐藤さんが差し入れてくれたごちそうが並んでいた。
「蓮、今日の走り、ほんとにカッコよかったぞ。俺も覚悟決まったわ」
レンくんが、お寿司を口に運びながら力強く言った。
「ロンドン公演、正式に受けることにした。薫さんのノート見たらさ、逃げてられんって思えたよ。……俺たちB:DASHも、絶対に世界中のファンを熱狂させてみせる!」
「レンくん……!」
結と蓮が目を輝かせる。佐藤さんも温かく微笑みながらグラスを掲げた。
「素晴らしい決断ですね、レンくん。先生の『予言』なら、間違いなく大成功しますよ」
「……佐藤さんに言われなくても、絶対成功させます!」
意地を張るレンくに、みんなでドッと笑いが起きた。
「わぁ〜! じゃあ私、ロンドン行きのためにパスポート準備しなくっちゃね!」
ママはやっぱり呑気に目を細めて笑っていた。
ママが『なんとなく』紡いだ言葉の予言。
それに背中を押され、大好きな人たちに見守られながら自らの足で未来へと走り出す子どもたちと、レンくん。
緑のヨギボーが置かれたいつものリビングに、世界へと続く新しい風が、静かに吹き抜けていた——。




