第8話︰空席のヨギボーと、静かなる守護者
【語り:真衣】
今思えば、サインは数日前から出ていたのだ。
「あ、真衣〜。おかえりー!」
数日前から、ママはご機嫌な様子で、お気に入りのヨギボーに深く体を沈め、膝の上にノートPCを載せてキーボードを叩くことが増えていた。
「ママ、また新作のアイデア?」
「ううん、なんとなく書きたい情景が浮かんじゃってさ! みんなも勉強や部活頑張ってるし、ママもお仕事頑張らなきゃなって!」
それからのママは、とにかく執筆に集中していた。気付けばヨギボーでPCに向かって仕事をしている。
だからといって、家事や私たちの世話を疎かにすることなんて絶対にないのがママという人だ。
朝は誰よりも早く起きて、陸上部の蓮のために栄養満点の朝ごはんを別メニューで作り、結の送り迎えやYUI関係の事務的やり取りもしながら歌の練習に付き合い、私の大学の課題の愚痴を「うんうん」と笑顔で聞いてくれる。夕飯だって、旬の野菜をたっぷり使った品数の多い温かい料理が毎晩食卓に並んでいた。
ママはいつだって、「テキトー母さん」だからって言いながら、私の憧れのお母さんだった。
でも、私たちが寝静まった深夜。ふと目を覚ましてリビングを覗くと、暗闇の中でPCの画面に照らされながら、ママが「ふふっ」と楽しそうに執筆に没頭している姿があった。
「ママ、ちゃんと布団で寝なよ?」
「はーい、あとちょっとしたらね〜」
昼間私たちがいる時間は完璧に母親としての役割をこなし、夜は自分の楽しみに没頭する。そうやって睡眠時間を極限まで削っていたのだと気づいたのは、次の日の夕方だった。
「ただいまー……って、え……? ママ!?」
ママが、緑のヨギボーから滑り落ちるように、フローリングの上に倒れていたのだ。
「ママ! しっかりして! ママ!!」
鞄を放り投げ、弾かれたように駆け寄る。抱き起こしたママの肌は火のように熱く、荒い息を吐いていた。
「あ、真衣……おかえり……」
そう言って笑うと、また目を閉じるママ。
「ママ……」
パニックで手が震える。119番をするべきか、でも反応はある、どうしよう、どうしたら——!
混乱する頭の中で、ひとつだけ確かな電話番号が浮かんだ。
(佐藤さん……!)
ママがデビューした頃からのママの担当で、特に父が亡くなった後はママのサポートをしながら私たちきょうだいの成長もずっと見守ってきてくれた担当編集者の佐藤健一さん。私は震える指でママのスマホを操作し、発信ボタンを押した。
『はい、佐藤です。薫先生、何かありましたか?』
「ごめんなさい!真衣です!佐藤さんっ! たすけて、ママが……ママが倒れちゃって! すごい熱で、声をかけても起きなくて……っ!」
半泣きで叫ぶ私に、電話の向こうの佐藤さんは一瞬息をのんだが、すぐに極めて冷静な、落ち着いた低い声で答えた。
『真衣ちゃん、落ち着いて。先生を横にして、首元や脇の下を冷たいタオルで冷やしてあげてください。今すぐ会社を出ます。30分で着きますから』
「はい……っ、はい!」
通話が切れた後、私は言われた通り氷嚢を作り、ママの額に当てて必死に手を握りし続けた。
そして約束通り、正確に30分後。
キキッという静かなブレーキ音とともに、佐藤さんのシックなSUVが我が家の前に滑り込んできた。
「真衣ちゃん、もう大丈夫ですよ」
玄関を飛び込んできた佐藤さんは、スーツのジャケットを脱ぎ捨てると、迷いのない動作でママを抱き上げた。
「保険証と診察券を持ちましたね? 車に乗ってください。近所の総合病院の急患に連絡してあります」
てきぱきとした佐藤さんの指示に、私は何度も頷くのが精一杯だった。車の中でも、佐藤さんはバックミラーでママの様子を絶えず確認し、パニックになる私に「ただの過労と風邪だと思います。大丈夫、僕がついていますから」と優しい声をかけてくれた。
(佐藤さんが居てくれて、本当に良かった……っ)
私は佐藤さんの圧倒的な頼もしさにすがりつく思いで、何度も胸の中で感謝していた。
◇
病院での検査の結果、診断は「重度の睡眠不足と過労による発熱」。
点滴を打って、念のため今夜は1日入院することになった。
「あ〜あ、やっちゃった……。佐藤さん、急に呼び出しちゃってごめんなさいねぇ」
ベッドの上で点滴の袋を見上げながら、ママが呑気な声を出す。
佐藤さんは深くため息をつき、呆れつつもそそくさとママの掛け布団を直し、乱れた前髪を優しく手で整えた。
「先生……僕を心配させるのは原稿の遅れだけにしてください。真衣ちゃんも生きた心地がしなかったんですよ」
「ふふ、ごめんねぇ真衣。佐藤さんも」
ママはケロッと笑っている。佐藤さんはそんなママの顔をどこか切なさそうに見つめていた。
◇
一方その頃、玉木家の玄関の鍵がガチャリと開いた。
「真衣ちゃん! 蓮! 薫さん大丈夫なんか!?」
帽子とマスクで変装したレンくんが、息を切らせて飛び込んできた。家族グループLINEに飛び交うLINEでママが倒れたと知り、リハーサル終了後に飛んできたらしい。
両手には、スポーツドリンクやゼリー飲料が入ったコンビニの袋がパンパンに握られていた。
「レン兄ちゃん! 真衣からなんか連絡あった?」
陸上部から帰っていた蓮と、高校から帰ってきた結がリビングから顔を出す。
「おう、入院になったって聞いて……! 二人、飯は食べたんか? 薫さんいなくて大丈夫か?」
「ううん、まだ……。でもね、佐藤さんが一緒に行ってくれたから大丈夫」
「よし、俺がなんか作るよ! 蓮、野菜切るの手伝え!」
レンくんは腕まくりをすると、慣れた手つきで玉木家の「お留守番のリーダー」としてテキパキと夕飯の準備を始めようとした。
そこへ、病院から真衣を送り届けに佐藤さんがやってきた。
「ただいま。ママ、点滴打って落ち着いたよ」
「真衣ちゃん、みんな。先生は明日には退院できますから、安心してくださいね」
玄関で佐藤さんが柔らかく微笑むと、結と蓮の顔が一気に和らいだ。
「佐藤さん! 本当にありがとう! ママのこと、いつも助けてくれて……」
結がホッとしたように佐藤さんの腕にすがりつくと、佐藤さんは「結ちゃんも心配だったね」と、幼い頃から知っている温かい眼差しで結の頭をぽんぽんと優しく撫でた。
「佐藤さん、僕、ママが倒れたって聞いたときマジで焦ったんだけど……佐藤さんがいてくれて本当によかった。本当にありがとう!」
蓮が素直な笑顔でそう言うと、佐藤さんは一瞬だけ驚いたように目を見開き、どこか愛おしそうに苦笑した。
「……ありがとう、蓮くん。でも、僕はただの担当編集者だからね。みんながしっかりお留守番してくれて、先生も安心してると思うよ」
幼い頃から参観日や行事のたびに、多忙なママを陰で支え、玉木家を見守り続けてくれた佐藤さん。子どもたちにとって、佐藤さんは単なる「仕事のパートナー」を超えた、まるで父親のような、親戚の頼れるおじさんのような、絶対的な安心感を持つ存在だった。
だが、玄関の隅でそのやり取りを見ていたレンくんだけは違っていた。
スポーツドリンクのペットボトルを握りしめたまま、佐藤さんをじっと見つめるレンくん。
「……佐藤さん。薫さんのこと、本当にありがとうございました」
「いえ、レンくんも駆けつけてくれたんですね。頼もしいです。みんなの分のお弁当買ってきてあるので、しっかり食べて、お風呂に入って、今日は早く寝てくださいね。」
丁寧にお辞儀をして去っていく佐藤さん。その去り際、佐藤さんが薫の描いた原稿の入った鞄を愛おしそうに抱え直し、どこか切なげに振り返ったのを、レンくんは見逃さなかった。
(……ん?)
レンくんの頭の中で、電撃が走る。
(あのオッサン……薫さんを見る目が、子どもたちに見せる『お父さん』の顔と違う……! 本気で薫さんのこと、一人の女性として想っとるんか……!?)
「ちょっとレンくん? どうしたの、固まって?」
真衣に声をかけられ、レンはハッと我に返った。
「あ、いや! 何でもない! よし、ご飯食べるようか!」
表情をころころ変えながら誤魔化すレンだったが、胸の中はザワザワと穏やかではなかった。
(薫さんは絶対何にも気づいてへん天然や……。でも、あのオッサン……マジなんか……!?)
長年「東京のオカン」として慕ってきた大切な存在を巡り、レンくんの密かなヤキモキが爆発した夜だった。




