11『そのときまで』
事故が苦しくないわけがなかった。
いや、少し語弊がある。俺は相変わらず肉体的には苦しくないし、痛みもない。ただ、精神的な辛さというものがあった。これは苦しいと表現しても差し支えないだろう。
俺は目を覚ますことが出来なかった。
死んだわけではない。意識はちゃんとある。しかし目の前は真っ暗な闇に包まれたままだった。失明したという可能性も無くはない。頭を打って視神経がおかしくなったとか、ガラスの破片が眼に入って眼球がおかしくなったとか、そういう可能性は大いにある。しかし、それを確かめる術は俺にはない。そもそも、俺は目蓋を動かすことができなかったのだ。
どんなに意識をしても、どんなに力を込めても、目蓋はピクリとも動こうとしない。目蓋だけじゃない。口も、鼻も、眉も、首も、腕も、指も、足も、何処に意識を集中させても動かすことは叶わない。でも、生きているから心臓だけはなんとか動いているのだろう。思考もできるから脳も死んでいない。
では、何故俺が生きていると判断したのかと言えば、それは音と温度がまだ感じることができるからだった。
イメージ的には、真っ暗な部屋の中、一人拘束されて閉じ込められている、といった感じだ。ただ、その真っ暗な部屋は少し意識すれば途端に音の洪水が起こる。そしてたまに温度を感じる。
真っ暗な部屋でやることがない俺は、意識がある間は耳に全ての神経を集中させている。意識がないときは、多分寝ているのだろう。ずっと寝ているようなもんなのに。
耳をすましてみる。
今日も音が聞こえた。音は機械的に一定のリズムを刻み続けている。相変わらず聞き慣れない音だった。
今日も音が聞こえた。音は何かを滅茶苦茶に叫んで嘆いている。相変わらず聞き慣れた音だった。
初めて聞く音がした。音は最初にガタンと大きな音をたてると、泣きながら何かを訴えていた。好きな人の声だった。
「ねえ、なんで……? っ、昨日まで、一緒だった……じゃん……っ……『またね』って、言ったじゃん……!」
家族の声よりも鶴ヶ谷の声の方がはっきり聞こえるというのはどういうことだろうか。この真っ暗な部屋の中でも鶴ヶ谷の声が聞こえるというのは大変喜ばしいことだが、しかしこんな声なら聞こえなくてよかったと思う。むしろ聞きたくなかった。泣いている鶴ヶ谷なんて、見たくない。
「バカ……! バカ、バカバカバカ、バカぁ……ッ!」
鶴ヶ谷の声と同時に、ボスンという音が聞こえたから、きっと布団の上から俺の身体を叩いているのだろう。ああ、出来ることなら、もっと強く叩いて俺の感覚神経を覚醒させてくれ。
「……どうして…………」
鶴ヶ谷が弱々しく嘆くと、ボスンという音は消えた。代わりに俺の右腕の一部に熱が伝わった。鶴ヶ谷の手だろうか。温度しか分からないため、その手が若いのか年老いているのかどうかすら判別がつかない。いや、そもそも手なのかどうかすらも怪しい。鶴ヶ谷の手だったらいいな、とは思うが。
それから暫く鶴ヶ谷の泣く声が真っ暗な部屋を支配していた。この音は出来れば部屋から出ていってほしい。俺は鶴ヶ谷の笑う声の方が聞きたい。
そう、笑っている鶴ヶ谷が好きなのだ。
悲しんでいる鶴ヶ谷なんて見たくない。いてほしくない。
もし、俺のせいで悲しむというのなら、俺がいるから悲しむというのなら、俺は喜んで鶴ヶ谷から離れよう。俺から離れて、誰かの隣にいることで笑っていられるのなら、癪だが遠慮なくその誰かの隣にいってくれ。悲しむぐらいなら、俺のことなんて覚えていなくたっていい。
でも、鶴ヶ谷が俺のことを忘れても、きっとバカな俺は鶴ヶ谷のことが好きなままだろう。だから、俺が目を覚ましたとき、動けるようになったとき、鶴ヶ谷を悲しませることがなくなったとき、そのとき俺にまだ権利があるのなら、鶴ヶ谷の隣にいさせてくれないか?
俺は届かぬ声で鶴ヶ谷にそう頼んだ。
「…………待ってるよ」
俺の『頼み』が伝わったのかどうかは分からない。声が届かないのだから、想いも届かないと思っていたのだが。
でも、確かに鶴ヶ谷は涙ながらにそう言った。
だから俺は、届かぬ声で「ありがとう」と返した。




