10『飛ぶ』
「それじゃあ、また明日」
「ああ、また明日」
正門の前で鶴ヶ谷と手を振り合う。鶴ヶ谷と俺は家が逆方向にあるのだ。同じ方向だったら途中まで一緒に帰れるのに、なんてかなり残念に思ってしまう。ちなみに、俺は自転車で鶴ヶ谷は徒歩だ。
「あ、そうだ」歩き出そうとしたところで鶴ヶ谷が何かを思い出し手を叩いた。
「今度からは、咲って呼んでくれていいんだよ?」
少し照れながらニヤリと笑う鶴ヶ谷。言いたいことはそれだけだったらしく、「それじゃあ」なんて言って、俺の反応も待たずに背中を向け歩き出してしまった。その背中を俺は追い掛けようとは思わない。ああ、これから『鶴ヶ谷』と呼ぶ度に『咲』と呼べなんて言われそうだ。しかし、下の名前で呼ぶというのは中々ハードルが高いということに彼女は気付いているのだろうか。
鶴ヶ谷が帰ってしまったため、これ以上俺がここにいる必要はない。俺は自転車にまたがり、一気に正門の下に伸びる坂を下っていった。
自転車のスピードが上がるにつれ、俺の気分は高揚していく。いや、元々ずっと高揚していたんだ。それが今までどういうわけか出てこなかったのだ。鶴ヶ谷の前だからカッコつけていたのだろうか? あんな壁ドン(正確には胸ドン)を披露しておいて何を今さら、といった感じだが。
ああ、物凄く叫びたい衝動に駆られる。雄叫びをあげたい。奇声をあげたい。とにかく叫びたい。この身体の内から溢れ出す何かを存分に放出したい。今なら空だって飛べそうだ。このまま自転車を漕いでいたら、空を翔ていくのではないだろうか。そのぐらい、なんだって出来るような気がする。
鶴ヶ谷咲が俺の彼女になったという出来事は、そのぐらい俺の中で何もかもを解放してしまうのだろう。きっと、俺は「待ってたよ」と言う鶴ヶ谷の顔を一生忘れることはないだろう。
今思えば、この一週間の出来事について笑いが込み上げてくる。いつからかは分からないが、俺たちはずっと両想いだったらしい。それなのに、お互いに勘違いをし、勝手に相手に好きな人がいるとお互いに思い込み、拗ねて、凹んで、あんなことになっていた。鶴ヶ谷の嫉妬に気づけなかった俺も中々の鈍感だが、鶴ヶ谷も鶴ヶ谷で俺の態度に思うところはなかったのだろうか、なんて言いたくなってしまう。
「なんて、今はどうだっていいよなァ!」
周囲に通行人が居ないのを良いことに俺は叫ぶ。きっと、車の走る音に俺の声は掻き消されただろう。叫んだ気分は最高によかった。
訳もなくガシャガシャと自転車を全力で漕ぐ。凄い。興奮しすぎて、全く疲れがやってこない。今ならこのまま何処にでも行けそうだ。きっと、落ち着いたときに感じられなかったものがどっと押し寄せてくるのだろうけれど。
俺がスマホを教室に忘れた日行われていた女子会での鶴ヶ谷の発言が、全部俺のことだと思うと顔が熱い。『目の色が好きだった』あの言葉がぐるぐると脳裏を駆け巡る。あの言葉を言ったとき、鶴ヶ谷は一体どんな表情を浮かべていたのだろうか。今日、鶴ヶ谷は照れるととても可愛いということが発覚した。少し照れながらあの言葉を言ってくれると、とても嬉しい。
ああ、もう、頭の中が鶴ヶ谷で一色だ。
そんな状況だが、決して死にたくはないので交通ルールはしっかりと守る。目の前の信号が赤を示していたので、全力で漕いでいるために猛スピードになっている自転車にブレーキをかけて信号の前で止まる。半ば急ブレーキとなっていたため、バランスを崩して転びそうになった。格好が悪いことこの上ない。誰も(特に鶴ヶ谷が)見ていなかったからいいのだけれど。
信号が青に変わり、俺は再びペダルを踏む足に力を込める。
当たり前の話だが、否、注意不足かもしれないが、俺はこのとき前しか見ていなかった。物理的な前と、未来的な前を。
だから、横から猛スピードで迫ってくる車にも全く気付けなかった。
身体の左側が強いだけでは表現しきれない大きさの衝撃に襲われ、俺は重力に別れを告げる。宙を舞う程の衝撃を受けたというのに痛みは何も感じなかった。このあとやって来るのだろうか。
全てがスローモーションに見える。一秒が永遠に流れないような気がするほどゆっくりと時は流れていく。
視界の下の方に地面が見えた。自転車が原型をとどめないほどひしゃげており、交差点の中心で止まった、俺に衝突したと思わしきシルバーの車が他の車とぶつかっていた。ああ、俺は今からその中心に落ちていくのか。アスファルトではなくボンネットの上だったらまだ痛くはないだろうか。
何故、こんなことに。
さっきまで最高の気分だったのに、一気に突き落とされた気分だ。たった今再び重力と出逢い地面へ向けて落ちていく俺の身体と同様に気分が落ちていく。
まあでも、痛いだろうし、心配もかけるだろうけど、鶴ヶ谷に看病してもらえるならそれはそれで悪くないか。目が覚めたときに、「バカだね」なんて言って笑ってもらうことにしよう。
俺は胸に残る幸福感に浸りながら目を閉じた。
地面に叩きつけられたとき、衝撃が全身を襲うのとほぼ同時に俺の意識が暗闇に飲み込まれたため、痛みは分からずじまいだ。初めての交通事故は、案外苦しくはなかった。




