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凪の亡霊  作者: 鷹司 怜


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【第三部 白いワンピース】  『第九章 白いワンピース』

昭和六十三年、夏。


朝の海は静かだった。


美咲はスケッチブックを抱え、防波堤へ座っていた。


まだ七時前。


港には漁船が数隻浮かび、漁師たちが作業をしている。


潮風が髪を揺らす。


鉛筆を走らせる。


描いているのは海だった。


いつもの海。


毎日見ている海。


それなのに、何度描いても飽きなかった。


「また描いとるんか」


声がした。


振り向く。


恒一だった。


漁から戻ったばかりらしい。


腕まくりをしたシャツ。


日に焼けた顔。


ぶっきらぼうな表情。


だが目だけは優しかった。


「またです」


美咲は笑う。


恒一は隣へ腰を下ろした。


しばらく二人とも海を見る。


それがいつもの時間だった。


会話は少ない。


沈黙が苦にならない。


そんな関係だった。


「東京へ行きたいんじゃろ」


恒一が言う。


美咲は少し驚く。


「なんで分かったんですか」


「絵じゃ」


恒一はスケッチブックを見る。


「島の海ばっかり描いとる人間は、だいたい外へ行きたがる」


美咲は吹き出した。


「そんな法則あります?」


「知らん」


恒一も少し笑う。


珍しいことだった。


美咲は海を見る。


「行きたいです」


正直に言った。


「美術学校」


「うん」


「島を出たい?」


質問に詰まる。


出たい。


でも。


出たくない。


どちらも本当だった。


島は狭い。


噂はすぐ広がる。


若者は少ない。


夢を持つ人間は浮いて見られる。


だけど。


海は好きだった。


夕焼けも。


祭りも。


この風も。


全部好きだった。


「わがままですよね」


美咲が言う。


「そんなことない」


恒一は即答した。


美咲は少し驚く。


恒一は海を見たまま続ける。


「行きたい場所があるなら行けばええ」


風が吹く。


波が防波堤へ当たる。


「戻りたくなったら戻ればええ」


美咲は黙る。


誰もそんなことを言ってくれなかった。


島の大人たちはいつも言う。


島を守れ。


家を継げ。


親を安心させろ。


だが恒一だけは違った。


その言葉が嬉しかった。


その時だった。


港の向こうから声が聞こえた。


「美咲!」


同級生たちだった。


祭りの準備らしい。


提灯を運んでいる。


「行ってこい」


恒一が言う。


美咲は立ち上がる。


そして少しだけ振り返った。


「東京へ行ったら」


恒一を見る。


「絵葉書送ります」


恒一は照れくさそうに笑った。


「期待しとく」


美咲は走り出す。


夏の光の中へ。


祭りの準備が始まっていた。


島中が浮き立っている。


子供たちは走り回り。


老人たちは酒を飲み。


若者たちは提灯を吊るしている。


八月の祭りは、この島で一番大きな行事だった。


だが。


その日からだった。


違和感が始まったのは。


夕方。


美咲は帰宅途中、海辺で立ち止まる。


潮が引いている。


空は赤く染まり始めていた。


ふと。


沖の方を見る。


誰かが立っていた。


海の上に。


遠く。


白い霞の向こう。


人影だった。


男なのか女なのか分からない。


ただ、こちらを見ている。


美咲は目を細める。


次の瞬間。


影は消えた。


波だけが残る。


「……何だったんだろ」


気のせいだと思った。


そう思いたかった。


だがその夜。


夢を見る。


暗い海だった。


どこまでも黒い。


海の上には無数の提灯が浮かんでいる。


橙色の灯り。


何百。


何千。


数え切れない。


その灯りの向こうから声が聞こえる。


男。


女。


老人。


子供。


たくさんの声。


みんな何かを言っている。


だが聞き取れない。


ただ一つだけ。


同じ言葉が繰り返されていた。


――カエセ。


――カエセ。


――カエセ。


美咲は目を覚ます。


全身が汗で濡れていた。


窓の外は真っ暗。


時計を見る。


午前三時。


息が荒い。


鼓動が速い。


その時。


コン。


小さな音がした。


窓だった。


誰かが叩いている。


コン。


コン。


コン。


美咲は凍りつく。


恐る恐る窓を見る。


外には誰もいない。


月明かりだけ。


なのに音は続く。


コン。


コン。


コン。


まるで何かが中へ入れてくれと頼むように。


美咲は布団を握りしめる。


その夜は一睡もできなかった。


そして翌朝。


港へ出た彼女は知ることになる。


島で古くから語られてきた名前を。


海鬼――。


忘れられた者たちの悲しみが集まって生まれるという、瀬戸内の古い怪異の名を。



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