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凪の亡霊  作者: 鷹司 怜


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【第二部 志々島】  『第八章 隠し部屋』

蔵の奥にあった小さな扉。


遼と澪はしばらく動けなかった。


蔵の中は静まり返っている。


聞こえるのは外の蝉の声だけ。


それなのに、先ほど確かに女の声を聞いた。


――帰ってきて。


今度は二人とも。


聞き間違いではない。


「……開けますか」


澪が言った。


その声は少し震えていた。


遼は頷く。


逃げる理由はなかった。


ここまで来たら知るしかない。


扉へ近づく。


古い木製だった。


鍵はない。


ゆっくり押す。


ギィ――。


重い音と共に開いた。


中は小さな部屋だった。


三畳ほどの広さ。


窓はない。


長い間閉ざされていたせいか、空気が重い。


だが奇妙なことに埃は少なかった。


まるで誰かが時々手入れしていたように。


「誰か入ってたんでしょうか」


澪が呟く。


遼も同じことを思った。


部屋の中央には木箱が一つだけ置かれている。


他には何もない。


遼はしゃがみ込む。


箱の蓋を開ける。


中には古いノートが何冊も入っていた。


手紙。


写真。


そして赤い布に包まれた日記帳。


表紙には名前。


《佐藤美咲》


遼と澪は顔を見合わせる。


美咲本人の日記だった。


三十年以上前の。


遼は慎重に開く。


最初のページ。


丸みのある綺麗な字だった。


六月三日


今日は港で絵を描いた。


海が綺麗だった。


東京へ行きたい。


でもこの海は好き。


ずっと見ていられる。


ごく普通の日記だった。


若い女性の日常。


遼はページをめくる。


七月。


八月。


日記は続いている。


その中で何度も出てくる名前があった。


《恒一さん》


祖父だった。


七月十二日


恒一さんは不思議な人だ。


いつも無口。


でも私の絵だけは見てくれる。


今日も「海が好きなんじゃな」と言った。


少し嬉しかった。


澪が小さく息を飲む。


「やっぱり……」


「知ってたんですか?」


「噂だけ」


澪は日記を見つめる。


「島では二人が付き合ってたって言う人もいます」


遼は驚く。


祖父は当時三十代後半。


美咲は十九歳。


今なら問題になる年齢差だ。


だが時代が違う。


島の価値観も違う。


遼はさらにページをめくる。


八月に入る。


そこで日記の雰囲気が変わり始める。


八月三日


また見た。


海の上に人が立っていた。


夜だった。


誰も信じてくれないと思う。


八月四日


港のおばあさんが言っていた。


海鬼が出たらしい。


昔話だと思っていたのに。


八月五日


今日は本当に怖かった。


誰かが窓を叩く。


夜中に。


外には誰もいない。


澪の顔色が変わる。


遼も背筋が冷たくなる。


美咲は死ぬ前から何かに怯えていた。


そして。


最後の数ページ。


文字が乱れていた。


八月十二日


海鬼は人じゃない。


でも人の顔をしている。


知っている人の顔。


呼んでくる。


八月十三日


恒一さんに話した。


信じてくれた。


でも他の人は笑った。


八月十四日


祭り。


海へ行ってはいけない。


行ってはいけない。


行ってはいけない。


そのページで日記は終わっていた。


次のページは白紙。


最後のページだけに、短い文章が書かれている。


まるで急いで書いたような文字だった。


助けて


部屋の空気が凍りつく。


遼は日記を閉じた。


誰かが見捨てた。


だから祖父は「事故じゃない」と書いたのだ。


その時だった。


木箱の底に何かが見えた。


一枚の写真だった。


遼は取り出す。


祭りの写真。


提灯。


浴衣姿の人々。


笑顔。


その中央に美咲がいる。


だが。


写真の端。


海の方角。


そこに黒い人影が写っていた。


顔は見えない。


輪郭も曖昧。


まるで煙のよう。


だが人ではない何かに見える。


澪が青ざめる。


「これ……」


遼も言葉を失う。


写真の裏には祖父の字があった。


《祭りの夜》


《海鬼が現れた》


次の瞬間。


隠し部屋の扉が大きな音を立てて閉まった。


バンッ!


二人は飛び上がる。


部屋が真っ暗になる。


蔵の奥。


風など吹いていない。


それなのに。


暗闇の中で、確かに誰かが立っていた。


白いワンピース。


長い黒髪。


美咲だった。


その顔は悲しそうだった。


泣いているようにも見える。


そして静かに口を開く。


「……思い出して」


遼の耳へ届いたのは、それだけだった。


次の瞬間。


姿は消えた。


再び静寂。


だがもう疑いようはない。


美咲は何かを伝えようとしている。


三十年以上前の祭りの夜。


島が隠した真実を。



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