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凪の亡霊  作者: 鷹司 怜


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【第二部 志々島】  『第七章 海鬼の記録』

蔵の中は静まり返っていた。


遼の手の中には、一冊の古い記録帳がある。


《海鬼について》


祖父・恒一の字だった。


表紙は潮風で傷み、角は擦り切れている。


何度も読み返された跡があった。


「読むんですか?」


澪が訊く。


その表情には迷いがあった。


遼は頷く。


「ここまで来たら知りたいです」


自分の祖父が何を隠していたのか。


美咲とは何者だったのか。


そして、自分が見た白い女は何なのか。


記録帳を開く。


最初のページには日付が記されていた。


《昭和六十三年八月五日》


今から三十年以上前。


美咲が亡くなった年だった。


遼はゆっくり読み始める。


《島では昔から海鬼の話がある》


《海で死んだ者の未練が集まり、姿を持つ》


《呼ばれた者は海へ帰る》


遼は眉をひそめる。


まるで昔話だ。


だが祖父の字は真剣そのものだった。


ページをめくる。


《子供の頃、祖父から聞いた》


《戦の時代にも現れたという》


《沈んだ兵隊》


《帰らぬ漁師》


《嵐で消えた船》


《海鬼は悲しみを食う》


蔵の空気が重く感じられる。


澪も黙って読んでいた。


さらにページを進める。


そこから文字が荒れ始める。


まるで書いている本人が追い詰められていたように。


《見た》


《白い服だった》


《海の上に立っていた》


《美咲だった》


遼は息を止めた。


確かに書いてある。


美咲。


祖父も見ていたのだ。


自分だけではない。


次のページ。


《佐伯も見たと言う》


《藤本も見た》


《祭りの日から毎晩現れる》


「藤本さん……」


遼は思い出す。


隣家の老人。


朝、海を見ながら話した人物だ。


つまり島の老人たちは皆、何かを知っている。


知っていて隠している。


その時。


蔵の外で風が吹いた。


木戸がわずかに揺れる。


ギィ、と音を立てた。


遼は無意識に振り返る。


誰もいない。


だが見られている気がした。


再び記録帳へ目を落とす。


後半になるにつれ内容は異様になっていく。


《夢を見る》


《海の底に灯りがある》


《何百もの提灯》


《呼んでいる》


《カエセ》


《カエセ》


《カエセ》


その言葉が何度も書かれていた。


筆圧が強い。


紙が破れそうなほどに。


澪が小さく呟く。


「これ……」


遼も同じことを思っていた。


祖父は伝承を調べていたのではない。


怯えていたのだ。


最後の方のページ。


そこには一枚の紙が挟まれていた。


黄ばんだ新聞の切り抜きだった。


見出し。


《祭りの夜 女性行方不明》


昭和六十三年。


志々島。


十九歳女性。


佐藤美咲。


遼の心臓が大きく鳴る。


記事は短かった。


祭りの夜に失踪。


翌朝、沖合で遺体発見。


事故として処理。


それだけだった。


だが記事の余白には祖父の字で書き込みがある。


《嘘だ》


たった二文字。


しかしその重みは大きかった。


遼は記事を見つめる。


事故ではない。


祖父はそう考えていた。


いや。


知っていたのかもしれない。


「澪さん」


遼は静かに訊いた。


「美咲さんは、本当に事故だったんですか」


澪は答えない。


しばらく俯いていた。


そして。


ゆっくり顔を上げる。


「島では事故だと言われています」


「でも?」


風が吹く。


蔵の暗闇が揺れる。


澪は小さく息を吐いた。


「私の祖父は違うと言っていました」


遼の背筋が冷たくなる。


「違う?」


「……誰かが見殺しにしたって」


沈黙。


外では蝉が鳴いている。


瀬戸内の夏。


どこまでも穏やかな景色。


なのに蔵の中だけが別世界だった。


遼は記録帳を閉じる。


その瞬間だった。


蔵の奥から再び音がした。


――コツ。


二人が振り向く。


木箱の向こう。


さらに奥。


今まで気づかなかった壁がある。


その壁には小さな扉が付いていた。


隠し部屋だった。


遼と澪は顔を見合わせる。


祖父は何を残したのか。


美咲の死と海鬼の謎。


その答えが、扉の向こうにあるような気がした。


蔵の空気が重くなる。


そして再び。


どこからともなく、女の声が聞こえた。


――帰ってきて。


今度は遼だけではなかった。


澪も確かに、その声を聞いていた。



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