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凪の亡霊  作者: 鷹司 怜


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【第二部 志々島】  『第六章 閉ざされた蔵』

その夜。


遼はなかなか眠れなかった。


蔵の中から聞こえた声。


――開けて。


確かに聞こえた気がした。


だが、考えてみればおかしい。


古い木造の蔵だ。


木材の伸縮かもしれない。


風の音かもしれない。


疲れによる聞き間違いかもしれない。


そう自分へ言い聞かせる。


だが胸の奥の違和感は消えなかった。


結局、眠りについたのは深夜だった。


そして翌朝。


遼は朝食を済ませると、庭へ出た。


空は快晴。


海から吹く風が心地よい。


問題の蔵は庭の奥に建っている。


土壁は色褪せていた。


瓦には苔が生えている。


何十年もここに立ち続けていることが一目で分かった。


近づく。


重い木戸。


古びた南京錠。


だが不思議なことに、錆びていなかった。


最近まで誰かが触っていたようにも見える。


「……気のせいかな」


遼は呟く。


その時だった。


後ろから声がした。


「そこ、開けるんですか」


振り返る。


澪だった。


今日は作業着姿で、軍手を手にしている。


「びっくりした」


「こっちの台詞です」


澪は蔵を見る。


そして少しだけ表情を曇らせた。


「その蔵、昔からあまり開けられてないんです」


「祖父の物ですか?」


「ええ」


言葉を選ぶように続ける。


「恒一さんが亡くなってからも、誰も入ってません」


遼は蔵を見上げる。


「じゃあ遺品が残ってるかもしれない」


「かもしれません」


だが澪はどこか落ち着かない様子だった。


遼は気づく。


島の人たちは皆、この蔵を避けている。


なぜなのだろう。


「開けてみますか」


澪が言う。


遼は頷く。


祖父の家を探したところ、蔵の鍵はすぐ見つかった。


古い木箱の中。


紙に包まれて保管されていた。


まるで誰かが、いつか開ける日のために残していたみたいに。


鍵を差し込む。


金属音。


ゆっくり回す。


ガチャリ。


錠が外れた。


風が吹く。


どこからともなく潮の匂いが流れてくる。


遼は木戸へ手を掛けた。


ゆっくり開く。


ギギギ……。


長い年月を感じる音。


暗闇が口を開ける。


中はひんやりしていた。


外より明らかに気温が低い。


遼と澪は顔を見合わせる。


そして中へ入った。


埃が舞う。


窓は小さい。


薄暗い。


古い農具。


木箱。


漁具。


昭和の面影を残す品々。


まさに時間が止まった空間だった。


「すごい……」


遼は思わず呟く。


祖父の人生そのものが詰まっているようだった。


澪は棚を見ていた。


「写真があります」


遼も近づく。


古いアルバムだった。


表紙は色褪せている。


ページを開く。


白黒写真。


漁船。


祭り。


子供たち。


そして若い頃の祖父。


今の遼と同じくらいの年齢だった。


驚くほど精悍な顔つき。


笑顔もある。


遼の知らない祖父だった。


さらにページをめくる。


そこで手が止まる。


若い女性が写っていた。


白いワンピース。


長い髪。


海辺に立っている。


遼の背筋が凍った。


見覚えがあった。


船で見た女。


夜の海で見た女。


夢の中の女。


同じだった。


「この人……」


澪も写真を見る。


その瞬間、表情が変わった。


「美咲さん……」


小さな声だった。


遼は顔を上げる。


「知ってるんですか」


澪は答えなかった。


代わりに別の写真を見つめる。


そこには祖父と美咲が並んで写っていた。


二人とも笑っている。


恋人同士にも見える。


家族にも見える。


だが写真の裏側には、震える字でこう書かれていた。


《昭和六十三年 夏祭り前》


その年。


美咲は死んだ。


遼は静かに息を飲む。


蔵の中の空気が重くなる。


まるで誰かがこちらを見ているようだった。


その時。


奥から物音がした。


コトン。


遼と澪が同時に振り向く。


暗い蔵のさらに奥。


木箱が積まれている場所。


何かが落ちた音だった。


二人は近づく。


そこには、一冊のノートが転がっていた。


先ほどまで見えていなかったはずなのに。


まるで誰かが落としたみたいに。


遼は拾い上げる。


表紙には祖父の字。


《記録帳》


そして、その下にもう一行。


海鬼(うみおに)について》


遼の鼓動が大きく鳴った。


蔵の外では、穏やかな瀬戸内の海が光っている。


だがその光の届かない場所で。


三十年以上封じられていた何かが、静かに目を覚まし始めていた。



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