【第二部 志々島】 『第五章 潮の匂い』
翌朝。
遼は鳥の鳴き声で目を覚ました。
東京では聞いたことのない目覚めだった。
目を開ける。
障子の向こうが明るい。
時計を見る。
午前六時。
普段ならまだ眠っている時間だ。
だが不思議と眠気はなかった。
縁側へ出る。
朝日が海を照らしていた。
瀬戸内海は鏡のように凪いでいる。
波がほとんどない。
島々が水面へ映り込んでいた。
遼はしばらく見入った。
言葉にならない美しさだった。
「だからみんな帰ってくるんじゃろうな」
突然声がした。
振り返る。
隣家の縁側に老人が座っていた。
麦わら帽子。
日焼けした顔。
八十歳近いだろうか。
「おはようございます」
遼が頭を下げる。
老人は頷く。
「恒一の孫じゃろ」
「はい」
「わしは藤本じゃ」
それだけ言うと、老人は海を見た。
遼もつられて海を見る。
しばらく沈黙。
だが気まずくない。
島にはこういう時間があるらしい。
やがて藤本が口を開いた。
「東京はどうじゃ」
「忙しいです」
「忙しいか」
老人は笑った。
「こっちは暇じゃ」
「そう見えます」
「じゃが暇にも才能がいる」
遼は思わず吹き出した。
藤本も笑う。
朝の海に笑い声が溶ける。
その時。
坂の下から声が聞こえた。
「三上さーん!」
澪だった。
帽子を被り、自転車を押している。
「時間あります?」
「ありますけど」
「じゃあ島案内しましょう」
そう言って手を振った。
結局、朝食もそこそこに家を出る。
島の道は細かった。
車がすれ違えない場所も多い。
石垣の間を歩く。
坂道を上る。
すると突然、視界が開けた。
一面のみかん畑だった。
段々畑が斜面へ広がっている。
その向こうには青い海。
空。
島々。
まるで絵画だった。
「すごい……」
遼は立ち尽くす。
澪が少し得意そうに笑う。
「ここ、島で一番好きな場所です」
風が吹く。
柑橘の香りが混じる。
瀬戸内独特の乾いた風。
東京の湿った空気とは全く違う。
「観光パンフレットみたいですね」
「よく言われます」
二人は畑の間を歩く。
農作業をしていた女性が声を掛けてくる。
「澪ちゃん!」
「おはようございます」
「その人が恒一さんの孫?」
「そうです」
「あらまぁ」
女性は嬉しそうだった。
まるで昔から知っている親戚に会ったみたいに。
島では人との距離が近い。
それが遼には新鮮だった。
昼前。
二人は港へ戻る。
漁協の建物から魚を運ぶ人たちが見える。
大きな鯛。
タコ。
アジ。
瀬戸内の海の恵みだ。
「お昼どうします?」
澪が訊く。
「おすすめあります?」
「あります」
即答だった。
連れて行かれたのは港近くの小さな食堂だった。
暖簾には《しおさい》と書かれている。
扉を開けた瞬間。
出汁の香りが広がった。
「いらっしゃい!」
元気な声。
女将らしい女性が顔を出す。
「あら、恒一さんのお孫さん!」
もう島中へ広まっているらしい。
遼は少し笑ってしまった。
運ばれてきたのは鯛めしだった。
湯気。
出汁の香り。
ほぐした鯛の身。
遼は箸を取る。
一口食べる。
思わず動きが止まった。
「うまい……」
心からそう思った。
派手な味ではない。
だが身体へ染み込む。
疲れた心まで温かくなる味だった。
澪が笑う。
「でしょ?」
遼は無言で頷く。
東京の高級店でも味わえない何かがあった。
食後。
店を出る。
港には昼の陽射しが降り注いでいた。
穏やかな海。
静かな島。
何も問題などなさそうに見える。
だがその時だった。
遼は気づく。
港の老人たちが、自分を見ると話をやめることに。
一瞬だけ視線が集まる。
そして逸らされる。
昨日もそうだった。
祖父の話になると空気が変わる。
誰かが何かを知っている。
そんな気がした。
「澪さん」
遼が呼ぶ。
「祖父って……島で何かあったんですか」
澪の足が止まる。
笑顔が少しだけ消えた。
風が吹く。
海が光る。
数秒の沈黙。
そして澪は言った。
「その話は……まだ聞かない方がいいです」
初めてだった。
彼女が明確に何かを避けたのは。
遼の胸に小さな不安が生まれる。
その日の夕方。
祖父の家へ戻った遼は、蔵の前で立ち止まった。
庭の奥。
古びた土蔵。
昨日は気にも留めなかった。
だが今は妙に気になる。
鍵は掛かっている。
窓も閉じられている。
それなのに。
中から音がした。
――コツ。
小さな音。
誰かが壁を叩いたような。
遼は耳を澄ます。
再び。
――コツ。
風ではない。
確かに聞こえた。
そして次の瞬間。
蔵の奥から、女の声がした気がした。
「……開けて」
遼の背筋を冷たいものが走った。




