【第一部 東京の海】 『第四章 海へ帰る船』
船が志々島へ着いた頃には、空は群青色へ変わっていた。
港の灯りが海面へ揺れている。
遼はデッキから島を見上げた。
小さな港。
坂道。
斜面に並ぶ民家。
みかん畑らしい段々畑。
想像していたよりも、ずっと小さな島だった。
船員がロープを投げる。
船が岸壁へ寄せられる。
「到着しまーす」
のんびりした声が響く。
乗客たちが次々と降りていく。
遼もキャリーケースを引きながら桟橋へ降り立った。
その瞬間だった。
潮風が吹く。
潮の香り。
波の音。
遠くで鳴く鳥の声。
東京で張り詰めていた何かが、少しだけ緩んだ気がした。
「三上さんですか?」
不意に声を掛けられる。
振り向く。
若い女性だった。
二十代後半くらい。
肩までの黒髪。
白いシャツにジーンズ。
派手さはないが、どこか目を引く。
「はい」
「澪です」
女性は軽く頭を下げた。
「自治会から迎えに来ました」
遼も慌てて頭を下げる。
「すみません、わざわざ」
「島なので」
澪は微笑んだ。
「みんな知ってますよ。三上さんが来ること」
その言葉に遼は少し驚く。
島という場所はそういうものなのかもしれない。
誰が来た。
誰が帰った。
そういう情報が自然と共有される。
澪がキャリーケースを見た。
「重そうですね」
「本が多くて」
「編集者さんでしたっけ」
「一応」
「でした?」
遼は苦笑した。
「今は微妙です」
澪はそれ以上聞かなかった。
その距離感が心地よかった。
二人は港から坂道を上る。
夜風が涼しい。
道の脇には石垣が続く。
どの家も古い。
だが手入れされている。
玄関先には花が咲き、軒先には風鈴が揺れていた。
「静かですね」
遼が言う。
澪は頷く。
「冬はもっと静かですよ」
「これ以上?」
「船の音しか聞こえません」
想像できなかった。
東京では沈黙そのものが珍しい。
だがここでは静寂が当たり前なのだ。
坂を上り切ったところで、澪が立ち止まる。
「着きました」
そこにあったのは古い日本家屋だった。
平屋建て。
木造。
広い庭。
瓦屋根。
長い年月を感じる家。
「祖父の家……」
遼は呟く。
小学生の時に見た記憶が蘇る。
縁側。
柿の木。
古い井戸。
確かにここだった。
澪が鍵を渡す。
「中は最低限掃除してあります」
「ありがとうございます」
「困ったことがあったら連絡してください」
そう言って帰ろうとした時だった。
遼はふと訊く。
「祖父は……どんな人だったんですか」
澪の足が止まる。
ほんの一瞬だけ。
「優しい人でした」
そう答えた。
だが何かを隠しているようにも見えた。
「ただ」
澪は続ける。
「海を見る時だけ、少し寂しそうでした」
それだけ言うと頭を下げる。
「お疲れでしょうから、今日はゆっくり休んでください」
夜道を下っていく後ろ姿。
やがて闇へ消えた。
遼は一人になる。
家の戸を開ける。
木の匂い。
畳の匂い。
古い家特有の空気。
居間には祖父の写真が飾られていた。
遺影の中の恒一は無表情だった。
何を考えていたのか分からない顔。
遼は荷物を置き、縁側へ出る。
海が見えた。
夜の瀬戸内海。
月明かりが水面へ伸びている。
静かな海。
あまりにも静かだった。
その時。
沖の方に光が見えた。
ぽつり。
ぽつり。
まるで提灯のような灯り。
漁船だろうか。
だが動かない。
海の上に浮かんだまま揺れている。
遼は目を細める。
次の瞬間。
灯りの近くに、人影が見えた。
白い服。
長い髪。
女だった。
船にも乗っていない。
まるで海の上へ立っているように見える。
遼は思わず立ち上がる。
目を擦る。
もう一度見る。
だがそこには何もなかった。
灯りも。
女も。
ただ夜の海だけが広がっている。
風が吹いた。
遠くで波が砕ける音がする。
遼は自分へ言い聞かせる。
疲れているのだ。
長旅だった。
色々なことがありすぎた。
そう思いながらも。
胸の奥には、小さな違和感が残り続けていた。
その夜。
遼は夢を見る。
黒い海。
無数の提灯。
そして。
誰かが遠くで呼んでいた。
――帰ってきて。
女の声だった。




