【第一部 東京の海】 『第三章 祖父の訃報』
出発の日の朝。
東京駅は人で溢れていた。
平日の朝だというのに、ホームには無数の人間が行き交っている。
スーツ姿の会社員。
旅行客。
学生。
誰もが急ぎ足だった。
遼はキャリーケースを引きながら新幹線へ乗り込む。
指定席の窓側。
座席へ腰を下ろすと、ようやく息を吐いた。
ここ数日、ほとんど眠れていない。
祖父の死。
由香との別れ。
会社での異動。
短期間で多くのものを失った。
新幹線が動き出す。
高層ビル群が流れていく。
やがて住宅街。
工場地帯。
そして郊外の景色へ変わる。
遼は窓へ額を預けた。
祖父のことを思い出そうとする。
だが記憶は曖昧だった。
小学校三年生の夏。
一度だけ両親に連れられて島へ行った。
海で泳ぎ。
スイカを食べ。
蝉の声を聞いた。
それくらいしか覚えていない。
祖父は無口だった。
優しかったのか。
厳しかったのか。
それすら分からない。
父は祖父と仲が良くなかった。
島を出て以来、ほとんど連絡も取らなかったらしい。
だから遼も自然と疎遠になった。
それなのに。
訃報を聞いた時、不思議と胸が痛んだ。
失ってから気づくものがある。
その言葉の意味を、今になって理解し始めていた。
昼過ぎ。
岡山駅へ到着する。
ホームへ降りると、空気が違った。
少し湿っていて。
少し柔らかい。
潮の匂いが混じっている気がした。
乗り換えのローカル線へ乗る。
窓の外には田園風景が広がる。
山。
川。
古い家々。
東京では見なくなった景色だった。
車内には老人が多い。
誰も慌てていない。
静かに窓の外を見ている。
時間の流れ方そのものが違うようだった。
夕方。
ようやく港町へ到着した。
そこからさらに船へ乗る。
桟橋へ向かう途中、遼は立ち止まった。
海だった。
瀬戸内海。
穏やかな水面。
大小の島々。
夕陽に染まる波。
東京湾とも、日本海とも違う。
まるで湖のように静かな海だった。
「……綺麗だな」
思わず呟く。
近くにいた老人が笑った。
「今日は特に凪いどるけぇな」
方言だった。
柔らかい響き。
遼は会釈する。
老人は続けた。
「海が穏やかな日は、島が一番綺麗なんじゃ」
その言葉が妙に心へ残った。
やがて定期船が到着する。
白い船体。
年季の入った船。
遼は乗船する。
デッキへ出る。
夕陽が海を赤く染めている。
船がゆっくり港を離れる。
波が広がる。
島々の影が長く伸びる。
遼は手すりへ寄りかかった。
東京では感じなかった静けさがあった。
スマートフォンを見る。
通知はほとんど来ていない。
由香とのトーク画面。
最後のやり取り。
会社のメール。
異動通知。
遼は画面を閉じた。
今だけは忘れたかった。
船は島々の間を進む。
瀬戸内の夕暮れ。
空と海が同じ色へ溶けていく。
その時だった。
ふと視線を感じる。
遼は振り返る。
船尾。
白い服の女性が立っていた。
長い髪。
風に揺れるワンピース。
こちらを見ているように見えた。
だが次の瞬間。
船が揺れる。
目を離した一瞬で、その姿は消えていた。
遼は周囲を見回す。
誰もいない。
気のせいだったのか。
夕陽が海へ沈み始める。
遠くに、小さな島影が見えた。
志々島。
祖父が暮らした島。
そして。
遼の運命を大きく変えることになる島が、静かに近づいていた。




