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凪の亡霊  作者: 鷹司 怜


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【第三部 白いワンピース】  『第十章 海鬼の名前』

翌朝。


美咲は寝不足のまま港へ向かった。


昨夜の出来事が頭から離れない。


窓を叩く音。


黒い海。


無数の提灯。


そして――カエセ。


あの声。


夢とは思えなかった。


港では老人たちが網の手入れをしていた。


蝉の声が降り注ぐ。


太陽は高く、海は穏やかだった。


それなのに美咲の胸には重い石が乗ったままだった。


「藤本のおじいちゃん」


美咲は網を繕っていた老人へ声を掛けた。


老人は顔を上げる。


深い皺。


日に焼けた肌。


島で一番の古老だった。


「どうした」


「海鬼って知ってる?」


その瞬間だった。


老人の手が止まる。


周囲の空気も変わった気がした。


近くにいた別の老人たちも視線を逸らす。


まるで聞いてはいけない言葉だったように。


藤本は黙ったまま海を見る。


やがて小さく呟いた。


「誰に聞いた」


「夢で見たの」


老人は眉をひそめる。


「夢か……」


それだけ言うと立ち上がった。


「こっちへ来い」


美咲は老人についていく。


港の外れ。


誰もいない防波堤。


波の音だけが聞こえる。


藤本は海へ向かって立った。


そして静かに語り始めた。


「海鬼は昔話じゃ」


「昔話?」


「じゃが、本当に見たと言う人間もおる」


風が吹く。


海がきらめく。


「昔、この海ではよう人が死んだ」


老人は続けた。


「嵐」


「遭難」


「戦争」


「事故」


「帰れんかった人間が大勢おった」


美咲は黙って聞く。


「海鬼は、そういう者たちの悲しみが集まって生まれると言われとる」


「悲しみが?」


「未練じゃ」


老人の目は遠くを見ていた。


「帰りたい者」


「会いたい者」


「伝えたい者」


「そういう思いが海に残る」


美咲の背筋が冷たくなる。


夢の中の声を思い出した。


――カエセ。


「じゃあ海鬼は幽霊なの?」


老人は首を横に振る。


「違う」


その答えは意外だった。


「海鬼は人ではない」


「でも人の顔をする」


美咲は息を飲む。


「知っとる者の姿で現れる」


防波堤へ波が当たる。


パシャン。


静かな音。


「死んだ者の姿」


「会いたい者の姿」


「時には自分自身の姿」


老人の声は低かった。


「だから騙される」


美咲は何も言えなかった。


その時だった。


港の方から走ってくる人影が見える。


若い漁師だった。


息を切らしている。


「藤本さん!」


老人が振り返る。


「どうした」


漁師は顔を青くしていた。


「また出た」


その一言で老人の表情が変わる。


「どこじゃ」


「沖の岩場です」


周囲の空気が凍りつく。


美咲には意味が分からなかった。


だが老人たちは理解しているらしい。


「誰が見た」


「三人です」


「姿は」


漁師は躊躇した。


そして答える。


「戦争で死んだはずの佐伯さんでした」


沈黙。


蝉の声だけが響く。


美咲は混乱する。


戦争で死んだ人間が現れた?


そんな話があるだろうか。


だが漁師は本気だった。


冗談ではない。


藤本は大きく息を吐く。


「今年は早いな」


誰に向けた言葉でもなかった。


その日の夕方。


美咲は恒一を訪ねた。


漁具小屋の前で網を修理している。


「海鬼のこと聞いた」


恒一の手が止まる。


やはり知っていた。


「藤本さんから?」


「うん」


恒一はしばらく黙る。


そして作業を続けながら言った。


「関わらん方がいい」


「どうして」


「昔話だからじゃない」


その声は真剣だった。


美咲は驚く。


恒一がここまで強い口調になるのは珍しい。


「本当にいるの?」


恒一は答えない。


代わりに海を見る。


夕陽に染まる瀬戸内海。


穏やかで美しい海。


だがその瞳には警戒があった。


「祭りの日が近い」


ぽつりと言う。


「祭りと関係あるの?」


恒一は頷く。


「昔からそう言われとる」


「祭りの夜は境が薄くなる」


美咲は意味が分からなかった。


「境?」


「この世と、向こう側のな」


風が吹く。


提灯を吊るす人々の声が遠くで聞こえる。


島は祭りの準備で賑わっている。


笑い声。


子供たちの歓声。


楽しそうな夏の日。


だが。


その裏側で何かが近づいている。


そんな気がした。


その夜。


美咲は再び夢を見る。


黒い海。


提灯。


無数の灯り。


そして今度は見えた。


灯りの向こうに立つ人影。


白い服。


長い髪。


女だった。


ゆっくり顔を上げる。


その顔を見た瞬間、美咲は息を呑む。


それは――


自分自身だった。


同じ顔。


同じ瞳。


同じ笑み。


海の上に立つもう一人の美咲が、静かに口を開く。


「祭りの日に来て」


目が覚める。


全身が汗で濡れていた。


窓の外では波の音が聞こえる。


そして遠くから。


祭りの太鼓の練習の音が微かに響いていた。


夏祭りまで、あと四日だった。



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