【第三部 白いワンピース】 『第十一章 海に沈んだ記憶』
第十一章 海に沈んだ記憶
祭りまで、あと三日。
島は準備で賑わっていた。
港には提灯が並び始め、子供たちは太鼓の練習をしている。
夕方になると、あちこちから笑い声が聞こえた。
だが美咲だけは違った。
胸の奥に冷たい不安が居座っている。
夢に出てくるもう一人の自分。
海の上に立つ人影。
そして海鬼。
どうしても気になって仕方がなかった。
その日、美咲は島の公民館を訪れた。
木造の古い建物。
普段は集会や寄り合いに使われている。
その奥に小さな資料室があった。
誰も利用しないような場所だ。
棚には古い帳簿や郷土史が並んでいる。
紙の匂い。
埃の匂い。
窓から差し込む夏の光。
美咲は一冊ずつ本を開いていった。
「海鬼……海鬼……」
独り言を呟きながら探す。
二時間ほど経った頃だった。
一冊の古びた郷土誌に、その名前を見つけた。
《海鬼伝承について》
ページは黄ばんでいる。
執筆者は不明。
美咲は息を整えて読み始めた。
海鬼とは、海難事故や戦乱で命を落とした者たちの怨念ではない。
未練でもない。
それらが集まり、一つの意志を持った存在である。
海鬼は孤独な者へ近づく。
心に空白を持つ者へ語りかける。
そして海へ招く。
美咲は顔を上げた。
孤独な者。
その言葉が胸に刺さる。
最近、自分がそうだったからだ。
東京へ行きたい。
だが島を捨てることへの罪悪感もある。
誰にも理解されない焦り。
夢への不安。
知らず知らずのうちに心が弱っていたのかもしれない。
ページをめくる。
そこには戦争中の記録が載っていた。
昭和二十年。
終戦間近。
この海域で輸送船が沈没したという。
多くの若者が帰らぬ人となった。
その後、島では奇妙な出来事が続いた。
死んだはずの息子を見た。
夫の声を聞いた。
海の上を歩く人影を見た。
そんな証言が何件も記録されていた。
美咲は背筋が寒くなる。
そして最後の一文に目を止めた。
海鬼は姿を持たない。
見る者の記憶を借りて現れる。
最も会いたい者の姿で。
夢の中の自分自身。
窓の外の人影。
海の上の女。
全てが繋がる。
その時だった。
資料室の扉が開く。
「やっぱりここにおったか」
恒一だった。
美咲は少し驚く。
「どうして分かったの?」
「藤本さんから聞いた」
恒一はため息をつく。
そして美咲の前へ座った。
「調べるな」
開口一番だった。
「どうして?」
「ろくなことにならん」
「でも知りたい」
恒一は黙る。
しばらく窓の外を見ていた。
やがて静かに言った。
「三十年前にもおった」
「え?」
「海鬼を追いかけた人間が」
美咲は身を乗り出す。
「誰?」
恒一は答えなかった。
代わりに郷土誌を閉じる。
「死んだ」
その一言だけだった。
資料室が静まり返る。
蝉の声だけが遠くで響いている。
「事故だったの?」
恒一は首を横に振る。
「分からん」
だがその顔は、何かを知っている人間の顔だった。
「恒一さん」
美咲は真っ直ぐ見つめる。
「何を隠してるの?」
恒一は答えない。
だが拳が強く握られている。
何か後悔がある。
そんな風に見えた。
その時だった。
公民館の外から子供たちの声が聞こえる。
祭りの太鼓の音も混じる。
ドン。
ドン。
ドドン。
夏祭りが近づいていた。
島は浮き立っている。
だが美咲には、その音が不吉な鼓動に聞こえた。
帰り道。
夕暮れの海沿いを歩く。
空は茜色だった。
穏やかな瀬戸内海。
島々の影が長く伸びている。
その美しさに、一瞬だけ心を奪われる。
すると波打ち際に何かが落ちているのが見えた。
小さな木箱だった。
潮に流されてきたらしい。
美咲は拾い上げる。
蓋は壊れている。
中には濡れた紙が一枚だけ入っていた。
文字はほとんど消えていた。
だが一行だけ読める。
祭りの日に返せ
美咲は凍りつく。
その字は最近書かれたものではない。
何十年も前のものだった。
海から来た箱。
謎の言葉。
そして祭りの日。
全てが同じ場所へ向かっている。
その夜。
再び夢を見る。
今度は海ではなかった。
真っ暗な神社。
提灯が揺れている。
階段の上に白い服の女が立っていた。
美咲自身の顔をした女。
女はゆっくり振り向く。
そしてこう言った。
「思い出して」
その瞬間。
美咲は見た。
夢の中の神社の石段に。
血が流れていることを。
目が覚めた時、窓の外では祭りの太鼓が鳴っていた。
祭りまで、あと二日だった。




