【第三部 白いワンピース】 『第十二章 忘れられた約束』
祭りまで、あと一日。
島は朝から慌ただしかった。
港には提灯が吊るされ、神社の境内では青年団が準備に追われている。
子供たちは浮き足立ち、大人たちは忙しく動き回る。
一年で最も賑わう日が近づいていた。
だが美咲の心は重かった。
夢を見るたびに、何かが近づいている気がする。
それは海鬼なのか。
それとも別の何かなのか。
分からない。
ただ、祭りの夜に何かが起こる。
そんな予感だけが強くなっていた。
その日の午後。
美咲は神社へ向かった。
夢で見た場所だった。
石段。
鳥居。
古い拝殿。
全てが夢の景色と同じだった。
蝉の声が響く。
木漏れ日が石段へ落ちる。
美咲は一段ずつ登っていく。
夢の中では血が流れていた。
だが今は何もない。
静かな神社だった。
境内の裏手へ回る。
そこには古い石碑があった。
苔むしている。
長い年月を感じさせる。
何気なく近づいた時だった。
石碑の裏側に文字が刻まれていることに気づく。
薄くなっていたが読めた。
昭和三十三年
海難供養碑
帰れなかった者たちへ
美咲は息を止める。
さらに下を見る。
何十もの名前。
事故で亡くなった人々だろう。
その時だった。
後ろから声がした。
「そこはあまり人が来ん」
振り向く。
藤本だった。
老人はゆっくり歩いてくる。
「供養碑ですか」
「そうじゃ」
藤本は石碑を見上げる。
その目には寂しさがあった。
「昔、この辺りで大きな事故があった」
「船ですか」
老人は頷く。
「嵐じゃった」
風が吹く。
木々が揺れる。
「島の男たちが何人も帰らんかった」
美咲は石碑を見る。
名前が並んでいる。
一人一人に人生があった。
家族がいた。
夢があった。
それらが海へ消えたのだ。
「海鬼はな」
藤本が言う。
「こういう場所から生まれる」
美咲は顔を上げる。
「悲しみは消えん」
老人は続ける。
「人は忘れようとする」
「でも忘れられん」
「だから残る」
海から吹く風が冷たく感じた。
その時だった。
藤本が不意に美咲を見た。
「お前さん、最近何を見た」
美咲は迷った。
だが隠しても意味がない気がした。
夢の話をする。
海の上の女。
もう一人の自分。
呼ぶ声。
祭りの日。
全てを。
藤本は最後まで黙って聞いていた。
やがて深くため息をつく。
「やっぱりか」
その一言が重かった。
「何ですか」
老人はすぐには答えない。
長い沈黙。
そして。
「昔もおった」
美咲の鼓動が速くなる。
「誰ですか」
「お前と同じように見た娘じゃ」
蝉の声が止んだ気がした。
「その人は?」
老人は目を閉じる。
「祭りの夜に死んだ」
美咲は息を飲む。
「事故ですか」
「そういうことになっとる」
またその言い方だった。
事故ではない。
だが真実も語られない。
島にはそんな話が多すぎた。
夕方。
美咲は恒一の家を訪ねた。
今日は逃がしたくなかった。
答えを聞くまで帰るつもりはない。
縁側で恒一は網を直していた。
夕陽が海を赤く染めている。
「話がある」
美咲は言った。
恒一は顔を上げる。
そして何かを悟ったようだった。
「藤本さんに聞いたのか」
「うん」
しばらく沈黙。
やがて恒一は網を置いた。
「三十年前」
静かに話し始める。
「俺には妹がおった」
美咲は驚く。
初めて聞く話だった。
「名前は春香」
恒一は遠くを見る。
「お前と同じくらいの年だった」
風が吹く。
夕陽が揺れる。
「祭りの夜に海へ落ちた」
美咲は言葉を失う。
「助からなかった」
恒一の声は小さい。
だが震えていた。
「その時も海鬼の噂があった」
「本当にいたの?」
恒一は首を横に振る。
「分からん」
だが続けた。
「ただ一つだけ言える」
その目が美咲を見る。
「人は恐怖に負ける」
美咲は黙る。
「何か分からんものが現れた時、人は簡単に誰かを見捨てる」
夕陽が沈み始める。
海が赤く染まる。
その色は血にも見えた。
恒一は立ち上がった。
「祭りの日は海へ行くな」
それだけ言った。
だがその言葉には、三十年間抱え続けた後悔が滲んでいた。
その夜。
美咲は夢を見なかった。
代わりに目が覚めた。
真夜中だった。
窓の外に灯りが見える。
提灯だった。
一つ。
二つ。
三つ。
海の上に浮かんでいる。
いや。
数十。
数百。
昨日より増えている。
無数の灯りが沖へ続いている。
そして。
その灯りの先に立つ女。
もう一人の自分。
白いワンピース。
長い髪。
その女は静かに海の向こうを指差した。
美咲の耳に声が届く。
「返して」
初めてだった。
今までとは違う言葉。
そして女の足元。
海の中に何かが沈んでいるのが見えた。
小さな木箱だった。
まるで何かを隠すように。
祭りまで、あと数時間。
三十年前から続く秘密が、ついに目を覚まそうとしていた。




