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凪の亡霊  作者: 鷹司 怜


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【凪の亡霊 特別編】  『遭難事故当時編(三)』


海鬼の誕生

事故から半年が過ぎた。


夏は終わり。


秋も終わり。


島には冬が訪れていた。


瀬戸内の冬は穏やかだ。


雪も少ない。


海も比較的静かだった。


だが。


島の人々の心は静かではなかった。


二十三人。


事故で命を落とした人々。


そのうち五人は見つからなかった。


海に消えたままだった。


葬儀は行われた。


墓も建てられた。


だが遺骨はない。


帰って来なかった。


特に村上清一の母は毎日のように港へ立った。


朝。


昼。


夕方。


海を見続けた。


誰も止められなかった。


「帰る言うたんじゃ」


それが口癖になっていた。


春になる頃には誰もが心配した。


身体も痩せた。


顔色も悪い。


だが本人は海へ通い続けた。


ある夕暮れだった。


港で網を修理していた老人がいた。


名を岩城源蔵という。


当時六十八歳。


生涯を海で生きた漁師だった。


その日。


海は凪いでいた。


鏡のような海面。


風もない。


音もない。


ふと。


沖合に灯りが見えた。


船かと思った。


だが違う。


灯りは一つではなかった。


二つ。


三つ。


五つ。


十。


二十。


無数だった。


提灯のような灯り。


ゆらゆら揺れている。


源蔵は立ち上がった。


目を凝らす。


誰かがいる。


灯りの間に人影が見えた。


白い服。


濡れた髪。


海面に立っているように見える。


あり得ない。


そんなことは分かっていた。


だが見えた。


確かに。


その中に若い男がいた。


源蔵は知っていた。


清一だった。


事故で行方不明になった青年。


源蔵は震えた。


恐怖ではない。


悲しみだった。


「帰れんかったんか」


そう呟いた瞬間。


灯りは消えた。


何事もなかったように。


翌日。


源蔵は誰にも話さなかった。


笑われると思った。


疲れていたのだろうと思われると思った。


だが一週間後。


別の漁師も見た。


さらに一か月後。


港の商店主も見た。


そして翌年には。


島中で噂になった。


凪の夜。


沖に灯りが現れる。


帰れなかった者たちが海を歩いている。


それが海鬼だった。


最初は恐ろしい話ではなかった。


むしろ逆だった。


会いたい人が現れる。


亡くなった家族が見える。


恋人が見える。


友人が見える。


悲しい話だった。


だが年月は伝承を変える。


十年後。


話は少し変わる。


海鬼を見ると海へ引き込まれる。


二十年後。


話はさらに変わる。


海鬼は死者を連れて行く。


三十年後。


子どもたちは海鬼を恐れるようになる。


本当は違った。


海鬼は怪物ではなかった。


帰れなかった人々の記憶だった。


忘れられることを恐れた想いだった。


だが誰もその意味を知らなくなった。


そして。


事故資料は木箱に眠る。


真実は隠される。


記憶だけが形を変えて残る。


昭和が終わる。


平成になる。


島から若者が減る。


学校も統合される。


漁師も減る。


それでも海鬼の話だけは消えなかった。


夏祭りになると誰かが語る。


「凪の夜は沖を見るな」


「呼ばれるぞ」


「海鬼が出るぞ」


子どもたちは怖がる。


大人たちは笑う。


だが本当は。


大人たちも少しだけ恐れていた。


忘れてしまうことを。


事故を。


帰れなかった人々を。


そして三十年後。


春香という少女が木箱を見つける。


美咲という少女が真実に近付く。


恒一が再び後悔と向き合う。


遼介が島へやって来る。


全ては繋がっていく。


夕暮れ。


源蔵老人は港へ立っていた。


事故から三十五年後。


海は今日も穏やかだった。


沖を見る。


灯りはない。


だが源蔵は微笑んだ。


「もう大丈夫じゃ」


誰に向けた言葉か分からない。


帰れなかった者たちへ。


残された者たちへ。


あるいは自分自身へ。


海は静かだった。


全てを覚えているように。


全てを許しているように。


それが。


海鬼の始まりだった。



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