【凪の亡霊 特別編】 『遭難事故当時編(二)』
海が閉じる時
午後一時二十七分。
第七せと丸は大きく傾いた。
甲板に立っていた人々が一斉に滑る。
悲鳴が上がる。
雨は激しくなり、風は人の声をかき消していた。
海水が船内へ流れ込む。
冷たかった。
真夏だというのに氷のようだった。
船長は最後まで操舵室を離れなかった。
沈没を防ごうとしていた。
しかし損傷は大きすぎた。
船首は既に沈み始めている。
助からない。
誰の目にも明らかだった。
「子どもを先に!」
誰かが叫んだ。
だが混乱の中で秩序は保てない。
救命胴衣も足りない。
小さな船だった。
まさか沈むなど誰も考えていなかった。
清一は近くにいた男の子を抱えていた。
七歳くらいだった。
泣きじゃくっている。
名前も知らない。
だが放っておけなかった。
「大丈夫じゃ」
清一は繰り返した。
本当は大丈夫ではない。
それでも言うしかなかった。
大きな波が船体を叩く。
轟音。
船がさらに傾く。
人々が海へ投げ出される。
百合子は手すりにしがみついていた。
参考書はもう無かった。
どこかへ流された。
高校へ行く夢。
教師になる夢。
未来。
その全てが雨の向こうへ消えていく。
百合子は泣かなかった。
怖かった。
だが不思議と冷静だった。
ふと母の顔を思い出す。
朝。
港で見送ってくれた母。
笑っていた。
「頑張るんよ」
そう言っていた。
帰りたかった。
ただ帰りたかった。
その時だった。
近くで幼い女の子が波にさらわれた。
百合子は反射的に飛び出した。
考えるより先だった。
手を伸ばす。
届く。
女の子の腕を掴む。
次の瞬間。
巨大な波が二人を飲み込んだ。
海の中は暗かった。
上下も分からない。
息ができない。
冷たい。
苦しい。
それでも百合子は女の子の手を離さなかった。
最後まで。
後に救助された女の子は証言している。
「お姉ちゃんが助けてくれた」
それだけだった。
名前も知らない。
だがその言葉だけが残った。
一方。
清一も海へ投げ出されていた。
男の子を抱えたまま。
波は高い。
視界は無い。
雨が叩き付ける。
だが清一は泳いだ。
島育ちだった。
海には慣れている。
何度も波に飲まれた。
それでも泳いだ。
男の子だけは沈ませない。
どれほど泳いただろう。
時間の感覚は消えていた。
やがて遠くに漁船が見えた。
救助船だった。
清一は最後の力を振り絞る。
男の子を押し上げる。
「頼む」
その言葉だけを残して。
力尽きた。
救助された男の子は生き延びた。
だが清一は帰らなかった。
事故は二時間後に収束した。
海は再び静かになった。
まるで何も起きなかったように。
だが。
島は違った。
亡くなった人。
行方不明になった人。
帰って来た人。
帰れなかった人。
それぞれの人生が突然途切れた。
島中が泣いた。
港が泣いた。
家族が泣いた。
しかし悲劇はそれだけでは終わらなかった。
数日後。
県の調査団が島へ来た。
事故原因を調べるためだった。
そこで問題が起きる。
本来なら運航停止にすべきだった船が使われていた可能性。
整備記録の不備。
報告漏れ。
責任問題。
事故は単なる自然災害ではないかもしれなかった。
調査資料は増えていく。
証言も集まる。
だが島の有力者たちは恐れた。
もし真実が公表されたら。
島の航路は無くなる。
漁業も観光も打撃を受ける。
若者はさらに出て行く。
島が終わる。
そう考えた。
そして。
間違った選択をした。
資料の一部を封印したのだ。
捨てることはできなかった。
良心が許さなかった。
だから木箱へ入れた。
いつか。
誰かが見つける日まで。
真実を隠した人も苦しんだ。
真実を知らない人も苦しんだ。
その木箱は神社の倉庫へ運ばれる。
三十年後。
春香が見つける場所へ。
そしてさらに三十年後。
遼が辿り着く場所へ。
夕暮れ。
事故現場の海は凪いでいた。
島の老人が呟く。
「海は覚えとる」
誰に聞かせるでもない言葉。
それが後に形を変え、
海鬼伝承の始まりとなる。
海は奪う。
だが忘れない。
だから。
海は今日も静かにそこにある。




