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凪の亡霊 【コンテスト応募作品・一挙全話公開中!】  作者: 鷹司 怜


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【凪の亡霊 特別編】  『遭難事故当時編(一)』 帰る船


昭和三十三年七月。


瀬戸内海は穏やかだった。


朝の港には活気があった。


漁船が出入りし、人々が荷物を運ぶ。


子どもたちは岸壁を走り回り、大人たちは笑いながら声を掛け合う。


いつもの夏だった。


誰も知らない。


その日が、後に島の歴史を変える一日になることを。


村上清一は二十三歳だった。


島で生まれ、島で育った。


漁師の息子。


背が高く、よく笑う青年だった。


その日は本土へ荷物を運ぶ仕事があった。


小型貨客船「第七せと丸」に乗る予定だった。


乗船前。


母が弁当を渡してくれた。


まだ温かかった。


「帰ったら食べんさい」


母はそう言った。


清一は笑った。


「帰る前に食べるわ」


母も笑った。


その会話が最後になるとは思わなかった。


同じ船には十七歳の少女も乗っていた。


名前は高瀬百合子。


本土の高校へ進学する予定だった。


島で初めて県立高校へ進む生徒だった。


賢く、努力家で、先生たちの期待を背負っていた。


手には参考書。


船の上でも勉強するつもりだった。


未来が待っていた。


希望があった。


甲板では老人が将棋を指していた。


商店の主人は仕入れの話をしていた。


赤ん坊を抱く若い母親もいた。


誰もが今日が続くと思っていた。


明日も。


来週も。


来年も。


船は午前九時過ぎに出港した。


瀬戸内海は凪だった。


空も青い。


雲も少ない。


絶好の航海日和。


船長も笑っていた。


「今日は早う着くぞ」


乗客たちも安心していた。


しかし。


昼前になると風向きが変わった。


最初は誰も気付かなかった。


小さな変化だった。


海面が少し揺れる。


空に灰色の雲が現れる。


それだけだった。


だが船長だけは海を見ていた。


長年の経験がある。


嫌な予感がした。


瀬戸内では珍しい急変だった。


午後一時。


雨が降り始めた。


ぽつり。


ぽつり。


最初は小雨。


だが十分後には土砂降りになった。


風も強くなる。


波が立ち始める。


乗客たちの表情が変わる。


笑顔が消える。


不安が広がる。


船は小さかった。


荒天には強くない。


船体が大きく揺れる。


子どもが泣く。


荷物が転がる。


誰かが祈り始める。


清一は窓の外を見た。


海が白くなっていた。


波頭が砕けている。


遠くの島影も見えない。


まるで世界から切り離されたようだった。


その時。


大きな衝撃が走る。


船が傾いた。


悲鳴。


食器が割れる音。


誰かが転倒する。


船長の叫び声が聞こえた。


「岩じゃ!」


海図にも載らない浅瀬だった。


荒天で位置を見失っていた。


船底が損傷する。


海水が流れ込む。


急速に。


容赦なく。


乗客たちは混乱した。


泣き叫ぶ者。


祈る者。


家族を抱き締める者。


立ち尽くす者。


百合子は震える手で参考書を抱いていた。


勉強のために持ってきた本。


未来へ続くはずだった本。


だが今は何の意味もなかった。


清一は近くの子どもを抱き上げる。


「大丈夫じゃ」


そう言った。


自分にも言い聞かせるように。


しかし。


船はさらに傾く。


海水が甲板へ流れ込む。


冷たい。


重い。


恐ろしい。


瀬戸内海は穏やかな海として知られている。


だが海は海だった。


時に牙をむく。


人の都合など関係なく。


そして午後一時二十七分。


第七せと丸は沈没を始めた。


誰も知らない。


この事故が三十年後。


春香や美咲。


遼介や遼の人生にまで繋がることを。


海は全てを見ていた。


何も語らず。


ただ静かに。


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