【凪の亡霊 特別編】 『遼介の東京三十年(三)』
島へ行け
遼介が五十歳を過ぎた頃だった。
父が亡くなった。
静かな最期だった。
病院の窓から見える空は晴れていた。
葬儀の後。
実家の整理をしている時だった。
古い桐箱が見つかった。
祖父の遺品だった。
中には戦時中の手紙が入っていた。
古びた紙。
色褪せた文字。
そこには友人の名前が何度も書かれていた。
戦争で帰れなかった人。
祖父はその友人を生涯忘れなかった。
何十年も。
死ぬまで。
遼介は箱を閉じた。
胸の奥が熱くなる。
不思議だった。
祖父も。
自分も。
忘れられない人を抱えて生きている。
形は違う。
時代も違う。
だが根っこは同じだった。
その夜。
久しぶりにテープを聞いた。
春香の声。
恒一の声。
波音。
雑音。
何度聞いたか分からない。
それでも聞き続けた。
忘れないためだった。
ある時から。
遼介は気付いていた。
自分が老いていることを。
白髪が増えた。
視力も落ちた。
階段が少し辛い。
若い頃は考えもしなかった。
終わりが近付いていることを。
六十歳を過ぎた頃。
息子が言った。
「親父、そろそろ仕事減らしたら?」
遼介は笑った。
確かにそうかもしれない。
体力は昔ほどない。
だがまだやり残したことがあった。
記憶を渡すこと。
それだけが心残りだった。
孫の遼が高校生になった頃。
遼介は時々一緒に出掛けるようになった。
写真展。
美術館。
海辺。
遼は写真が好きだった。
文章も好きだった。
そして人の話を聞くのが好きだった。
祖父は気付いた。
この子なら。
もしかしたら。
ある日。
二人で海を見ていた。
東京湾だった。
瀬戸内とは違う。
それでも海だった。
遼が言った。
「おじいちゃんは何でそんなに海が好きなの?」
遼介は少し考えた。
答えは簡単だった。
だが簡単には言えなかった。
「大切な人がいたんだ」
それだけ答えた。
遼は深く聞かなかった。
ただ頷いた。
その優しさが嬉しかった。
七十歳になった頃。
医師から病名を告げられた。
大きな驚きはなかった。
むしろ静かだった。
人はいつか終わる。
それだけだった。
帰宅後。
窓を開ける。
夕暮れだった。
赤い空。
そして不意に思う。
もう時間がない。
その夜から準備を始めた。
箱を整理する。
写真。
手紙。
テープ。
資料。
全て一つにまとめる。
遼へ渡すために。
だが迷いもあった。
背負わせていいのか。
知らない方が幸せではないか。
何度も考えた。
答えは出なかった。
そんなある夜。
夢を見た。
瀬戸内の海だった。
岬。
夕陽。
そして美咲。
若い頃のまま。
変わらない笑顔。
美咲は何も言わない。
ただ海を見ている。
遼介も隣に立つ。
静かな時間。
波音だけ。
すると美咲が振り向く。
そして。
微笑む。
その瞬間だった。
遼介は理解した。
伝えなければならない。
忘れないために。
誰かを苦しめるためではない。
未来へ繋ぐために。
翌朝。
机に向かった。
便箋を出す。
万年筆を持つ。
そして書く。
短い手紙だった。
何度も書き直した。
だが最後は一行になった。
島へ行け。
それだけだった。
説明はない。
理由も書かない。
だが遼なら行く。
そんな気がした。
封筒へ入れる。
箱へ入れる。
全てを閉じる。
長い旅の終わりだった。
数か月後。
病室の窓から夕陽が見えていた。
遼介は静かに目を閉じる。
潮の香りがした気がした。
東京の病院なのに。
不思議だった。
遠くで波音が聞こえる。
岬が見える。
夕陽が見える。
そして。
美咲がいる。
笑っている。
三十年前と同じように。
「待たせたな」
遼介は小さく呟いた。
返事はなかった。
だが。
優しい風が吹いた気がした。
その数週間後。
遼は祖父の遺品箱を開く。
一通の手紙。
一本のテープ。
そして。
島へ続く物語。
全てはそこから始まる。




