【凪の亡霊 特別編】 『遼介の東京三十年(二)』
記憶の守り人
社会人になって五年が過ぎた。
遼介は広告制作会社で働いていた。
忙しい毎日だった。
朝早く出勤し、終電近くで帰宅する。
休日も少ない。
だが仕事は嫌いではなかった。
写真や文章に関わる仕事だったからだ。
何かを伝える。
何かを残す。
その行為に救われていた。
二十代後半になると、周囲が結婚し始めた。
大学時代の友人たち。
会社の同僚たち。
皆、それぞれの人生を歩いていく。
結婚式にも何度か出席した。
祝福した。
本心だった。
だが帰り道はいつも少し苦しかった。
もし美咲が生きていたら。
そんな考えが浮かぶからだ。
ある日。
会社の後輩から言われた。
「先輩は結婚しないんですか?」
何気ない質問だった。
悪意はない。
だからこそ答えに困った。
しばらく考えた後、笑って答えた。
「縁がなくてね」
嘘ではなかった。
本当でもなかった。
帰宅後。
ベランダで夜空を見上げる。
東京の空は狭い。
島とは違う。
星も少ない。
だが時々、潮の匂いを思い出す。
瀬戸内の夜。
静かな波。
美咲の笑顔。
三十歳を過ぎても、記憶は色褪せなかった。
三十五歳になった頃。
母が体調を崩した。
入院だった。
遼介は病院へ通うようになる。
その時、母から聞かされた。
知らなかった話を。
「あなた、おじいちゃんに似てるのよ」
祖父の話だった。
若い頃、戦争で友人を失ったらしい。
その後、何十年もその友人の家族を支え続けた。
誰にも言わず。
見返りも求めず。
ただ忘れないために。
遼介は驚いた。
自分も同じことをしている気がした。
美咲を忘れない。
ただそれだけのために生きている部分がある。
血筋なのかもしれない。
そう思った。
四十二歳の春だった。
会社から帰ると郵便受けに封筒が入っていた。
差出人はない。
古びた茶封筒だった。
見覚えがあった。
島で使われていたものに似ている。
胸がざわつく。
部屋へ入り、ゆっくり開封する。
中には手紙が一枚。
そしてカセットテープ。
手紙には短く書かれていた。
真実を知る資格があるのは君だけだ。
恒一
遼介は固まった。
島の名前。
三十年近く見ないふりをしていた名前。
恒一。
美咲の幼なじみ。
祭りの日にいた男。
その夜。
古いテープレコーダーを探した。
倉庫から引っ張り出す。
埃を払う。
そして再生ボタンを押した。
最初は雑音だった。
ザーッという音。
波のような音。
その後に声が聞こえた。
春香だった。
「録音しています」
遼介の手が震える。
間違いない。
春香の声だ。
若い。
三十年前の声。
録音には全てが残っていた。
島の大人たちの会話。
遭難事故の真実。
隠された資料。
木箱。
後悔。
沈黙。
そして。
誰も悪人ではなかったこと。
朝まで聞いた。
一睡もできなかった。
怒りもあった。
悲しみもあった。
だが一番大きかったのは別の感情だった。
哀れみだった。
恒一も苦しんでいた。
藤本も苦しんでいた。
島も苦しんでいた。
三十年間。
誰一人、あの日から自由になれていなかった。
窓の外が明るくなる。
朝日だった。
遼介は静かにテープを止める。
長い沈黙。
そして呟いた。
「そうだったのか」
責める気持ちは消えていた。
許したわけではない。
だが理解した。
それが大きかった。
その日から遼介は箱を用意した。
防湿ケース。
テープ。
手紙。
写真。
全てを保管する。
捨てない。
誰にも渡さない。
その時が来るまで。
記憶は人を苦しめる。
だが記憶がなければ、人は本当に消えてしまう。
美咲も。
春香も。
遭難した人々も。
だから守る。
誰かが必要とする日まで。
誰かが受け取る日まで。
その夜。
夢を見た。
瀬戸内の海だった。
夕陽が沈んでいる。
岬の上に美咲が立っていた。
若い頃のまま。
変わらない笑顔。
「ありがとう」
聞こえた気がした。
本当に聞こえたのかは分からない。
夢だったのかもしれない。
だが遼介は笑った。
久しぶりに。
心から。
その瞬間。
彼は恋人を失った青年ではなくなった。
記憶を守る者になった。
そして。
三十年後。
その記憶を受け取る青年が現れる。
三上遼。
まだ何も知らない。
だが運命は少しずつ動き始めていた。




