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凪の亡霊  作者: 鷹司 怜


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【凪の亡霊 特別編】  『遼介の東京三十年(一)』


夏の続き

東京へ戻った日。


空港は混雑していた。


夏休みの終わり。


旅行客たちが笑いながら歩いている。


遼介はその中を一人で歩いた。


何も聞こえなかった。


周囲の声も。


案内放送も。


ただ歩いていた。


機械のように。


島での出来事は現実とは思えなかった。


祭りの日。


海。


春香。


美咲。


全てが悪い夢のようだった。


だがポケットの中には現実があった。


美咲からもらった小さな貝殻。


浜辺で拾ったものだった。


「お守りです」


そう言って笑っていた。


その笑顔だけが鮮明に残っている。


大学が始まった。


講義を受ける。


ノートを取る。


友人と話す。


食事をする。


眠る。


普通の生活。


だが遼介は普通ではなかった。


何をしていても思い出す。


美咲を。


島を。


夕陽を。


秋。


大学の写真サークルで展示会があった。


遼介も作品を出した。


全て瀬戸内の写真だった。


港。


路地。


漁船。


夕暮れ。


そして海。


仲間たちは驚いた。


「いい写真だな」


そう言われた。


だが遼介は首を振った。


本当に撮りたかったものは写っていない。


写真の中に美咲はいない。


春香もいない。


風も。


匂いも。


声も。


写せなかった。


冬。


雪が降った。


東京の雪は少ない。


だがその日だけは珍しく積もった。


窓の外を見ながら遼介は思った。


島には雪が降っているだろうか。


美咲なら何と言うだろう。


そんなことを考えていた。


そして気付く。


もう聞けないのだと。


何年経っても慣れなかった。


卒業が近付いた頃。


就職活動が始まった。


友人たちは将来を語る。


商社。


銀行。


メーカー。


皆忙しそうだった。


遼介も面接を受けた。


内定をもらった。


だが喜べなかった。


未来へ進むことが裏切りのように思えた。


自分だけが生き残ったようで。


前へ進んでしまうようで。


ある夜。


夢を見た。


島だった。


岬。


夕陽。


そして美咲。


彼女は笑っていた。


若いままの姿で。


何も言わない。


ただ笑っている。


遼介は泣きながら言った。


「ごめん」


何に対しての謝罪か分からない。


助けられなかったことか。


生き続けていることか。


忘れそうになることか。


分からなかった。


すると美咲は首を振った。


そして海を指差した。


そこには夕陽があった。


ただそれだけだった。


目が覚める。


朝だった。


涙で枕が濡れていた。


だが不思議と心は軽かった。


少しだけ。


本当に少しだけ。


その日。


遼介は決めた。


生きよう。


ちゃんと。


美咲の分まで、などとは思わない。


そんなことはできない。


自分は自分だ。


だが。


彼女と出会った人生を否定しないように生きよう。


そう思った。


春。


社会人になった。


新しい生活が始まる。


満員電車。


忙しい毎日。


残業。


失敗。


叱責。


現実は厳しかった。


それでも夜になると写真を見返した。


瀬戸内の海。


夕陽。


岬。


それが支えだった。


ある休日。


古いアルバムを整理していた。


すると写真の間から一枚の紙が落ちた。


美咲の字だった。


小さなメモ。


祭りの日の朝にもらったものだ。


まだ読めていなかった。


震える手で開く。


そこには。


祭りが終わったら話があります。


驚くと思います。


でもきっと喜んでくれると思います。


岬で待っています。


それだけだった。


短い文章。


だが遼介は何時間も動けなかった。


喜ぶ話。


何だったのだろう。


今となっては分からない。


永遠に。


窓の外で夕陽が沈んでいた。


瀬戸内ではない。


東京の空。


それでも赤かった。


同じように。


あの日と。


遼介は静かに目を閉じた。


そして初めて思った。


もしかしたら。


人生には答えの出ないことがあるのかもしれない。


それでも生きるしかないのかもしれない。


そうして。


遼介の長い三十年が始まった。



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