【凪の亡霊 特別編】 『美咲の日記(三)』
その日記は、資料館の整理中に見つかった。
古い木箱の奥。
潮の匂いが染み付いた一冊だった。
遼は静かにページをめくる。
そこには美咲の字が並んでいた。
笑ったこと。
悩んだこと。
恋をしたこと。
未来を夢見たこと。
そして最後のページ。
祭りの日の朝。
夜。
全部話してきます。
ちゃんと。
笑って。
未来の話をしてきます。
帰ったら続きも書こう。
だから。
行ってきます。
そこで終わっていた。
その先はない。
白紙だった。
一ページ。
二ページ。
三ページ。
何も書かれていない。
遼はその白紙を見つめた。
長い時間。
波の音だけが聞こえる。
窓の外には瀬戸内海。
穏やかな凪だった。
その時。
ふと思った。
もし美咲が帰って来られたなら。
何を書いただろう。
祭りの日 夜
ちゃんと言えました。
遼介さん、すごく驚いていました。
でも笑ってくれました。
泣いてもいました。
私も泣きました。
二人で泣いて笑いました。
少し変だったかもしれません。
でも幸せでした。
東京へ行く話もしました。
不安はあるけれど頑張ろうと思います。
子供も一緒です。
三人で。
まだ見ぬ未来へ。
海が綺麗でした。
今日の夕陽は一生忘れないと思います。
遼介さんも同じことを言っていました。
だからきっと忘れません。
何十年経っても。
子供の名前も考えました。
まだ秘密です。
男の子でも。
女の子でも。
元気ならそれでいい。
そんな当たり前のことが幸せです。
春香にも早く伝えたい。
きっと喜んでくれると思います。
少し大げさなくらい喜ぶと思います。
明日会ったら話そう。
今日は本当に良い日でした。
人生で一番幸せな日だったかもしれません。
だから。
もう寝ます。
おやすみなさい。
そんな文字が見えた気がした。
もちろん書かれてはいない。
全部想像だ。
遼の想像。
願い。
祈り。
それでも。
そうであってほしいと思った。
日記を閉じる。
すると一枚の紙が落ちた。
挟まっていたらしい。
古い封筒だった。
宛名は書かれていない。
中を見る。
短い文章だった。
美咲の字だった。
もし読んでいる人がいたら。
私はきっと幸せでした。
未来は分からないけれど。
出会えて良かった人がいました。
守りたいと思った命がありました。
大好きな海がありました。
だから。
悲しまないでください。
忘れないでください。
それだけで十分です。
遼は目を閉じた。
涙が落ちる。
静かに。
ゆっくりと。
夕暮れだった。
窓の外で海が光っている。
三十年前と同じ海。
美咲が見た海。
春香が守ろうとした海。
遼介が愛した海。
その時。
風が吹いた。
日記のページがめくれる。
ぱらり。
ぱらり。
そして最後の白紙で止まった。
まるで誰かが待っているように。
続きを。
未来を。
新しい物語を。
遼はペンを取った。
そして白紙へ一行だけ書く。
あなたたちのことは忘れません。
インクが乾く。
それで十分だった。
もう海鬼は現れない。
もう叫ばなくていい。
名前は残った。
記憶は残った。
物語は届いた。
窓の向こう。
夕陽に照らされた海が静かに輝いていた。
まるで。
ありがとう、と言うように。




