【外伝第九章】 『恒一の後悔』
恒一には誰にも話したことのない秘密があった。
それは春香のことでも、木箱のことでもない。
美咲のことだった。
若い頃。
恒一は美咲に恋をしていた。
島中の誰もが知るほどではなかった。
だが親しい者なら気付いていた。
恒一が美咲を見る目。
美咲の話になると少し嬉しそうになる顔。
誰よりも気に掛けていたこと。
しかし美咲は気付かなかった。
あるいは気付いていても触れなかった。
なぜなら。
美咲の心は最初から遼介に向いていたからだ。
東京から来た青年。
島の外の世界を語る人。
夢を否定しない人。
美咲が惹かれるのも当然だった。
恒一は理解していた。
だから何も言わなかった。
言えなかった。
好きだからこそ。
美咲の幸せを願っていたからだ。
祭りの日。
美咲と遼介が並んで歩く姿を見た。
本当に幸せそうだった。
恒一は少し寂しかった。
だが嬉しくもあった。
あの日までは。
春香が海へ落ちた時。
恒一は最も近くにいた。
あと一歩だった。
本当にあと一歩。
手を伸ばしていた。
だが届かなかった。
その光景は三十年間消えなかった。
夜眠る度に思い出した。
もし掴めていたら。
もし走り出していたら。
もし。
もし。
もし。
人生は「もし」でできている。
だが現実は変わらない。
春香は帰らなかった。
美咲も帰らなかった。
三十年後。
恒一は病院を退院した。
余命宣告を受けていた。
残された時間は多くない。
それでも最後に島を見たかった。
港へ行く。
夕暮れだった。
瀬戸内海は静かだった。
凪。
まるで何も起きなかったような海。
しかし恒一には見えていた。
この海の底に眠る記憶が。
忘れられた名前が。
帰れなかった人々が。
その夜。
恒一は古い神社へ向かった。
祭りが行われる場所。
境内には誰もいない。
風だけが吹いている。
石段へ腰を下ろした。
若い頃。
ここで美咲と話したことがある。
春香と笑ったこともある。
全て遠い昔だった。
その時。
足音が聞こえた。
振り返る。
誰もいない。
だが気配があった。
懐かしい気配。
優しい気配。
そして。
境内の奥に白い影が立っていた。
美咲だった。
三十年前のまま。
若い姿。
白い服。
長い髪。
月明かりの中で静かに立っている。
恒一は驚かなかった。
いつか会う気がしていた。
「美咲か」
声に出す。
白い影は微笑んだ。
あの日と同じ笑顔。
責めることもない。
恨むこともない。
ただ穏やかだった。
恒一の目から涙が流れる。
「すまん」
何度目か分からない謝罪。
三十年間言い続けた言葉。
美咲は首を横に振る。
そして海の方を見た。
恒一も振り向く。
沖に提灯が浮かんでいる。
無数の灯り。
海鬼。
だがもう怖くなかった。
あれは亡霊ではない。
記憶だ。
人の想いだ。
忘れられなかった人生だ。
美咲はゆっくり手を伸ばす。
海の向こうを指差す。
その先に見えたのは一人の青年だった。
知らない顔。
しかしどこか見覚えがある。
遼介に似ている。
そして。
美咲にも似ていた。
恒一は理解した。
遼だ。
三上遼。
あの青年が来る。
物語を終わらせるために。
いや。
終わらせるのではない。
繋ぐために。
翌朝。
恒一は最後の日記を書いた。
机に向かう。
震える手で文字を綴る。
長い文章ではなかった。
短い言葉だった。
美咲は海になった。
春香は風になった。
だから島は忘れてはいけない。
遼へ。
もしお前がここへ来たなら。
真実を探せ。
だが誰かを憎むためではなく。
誰かを覚えているために。
書き終えた。
インクが少し滲む。
窓の外を見る。
朝日が海を照らしている。
美しい景色だった。
美咲が愛した海。
春香が守ろうとした海。
そして。
三十年間、自分を支え続けた海。
数日後。
恒一は静かに息を引き取った。
枕元には日記が残されていた。
最後のページは開かれたまま。
窓から潮風が入っている。
誰かが迎えに来たような穏やかな表情だった。
そして、その数週間後。
東京で一通の手紙を受け取る青年がいた。
三上遼。
差出人は亡くなった祖父。
そこから全てが始まる。
海が呼ぶ。
記憶が呼ぶ。
瀬戸内の島が呼ぶ。
そして本編第一章へ――。




