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凪の亡霊  作者: 鷹司 怜


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【外伝第八章】  『三十年の沈黙』


祭りの日から一年が過ぎた。


島は静かだった。


表面上は。


港には船が行き交う。


漁師たちは海へ出る。


子供たちは学校へ通う。


何も変わらない日常。


だが本当に何も変わらなかったわけではない。


島の人々は二人の死を忘れられなかった。


春香。


美咲。


特に恒一は大きく変わった。


祭りの日以来、笑うことが減った。


酒も飲まなくなった。


夜になると一人で海を見るようになった。


誰にも言わなかったが、自分を責め続けていた。


あの日。


あと一歩早く動いていれば。


あと一言違う言葉を掛けていれば。


春香は落ちなかったかもしれない。


美咲も飛び込まなかったかもしれない。


その後悔は三十年間消えなかった。


藤本も同じだった。


彼は表向きには島のまとめ役として生きた。


祭りも続けた。


観光客も受け入れた。


だが毎年祭りの日が近づくと眠れなくなった。


夢を見るからだ。


夕暮れの岩場。


泣いている春香。


海へ飛び込む美咲。


そして。


海に浮かぶ無数の灯り。


何度も同じ夢を見た。


何十年も。


二人だけではない。


あの日に居合わせた人々は皆、何かを抱え続けた。


島は秘密を守った。


だが秘密は消えなかった。


土の下へ埋めても。


海へ沈めても。


人の記憶からは消えなかった。


そして不思議な出来事が起き始める。


祭りの前夜。


海に灯りが現れるのだ。


最初は一人の漁師だった。


夜明け前。


沖で漁をしている時。


水平線近くに提灯の列を見たという。


誰も信じなかった。


疲れていたのだろうと笑われた。


だが翌年。


別の漁師も見た。


さらにその翌年。


観光客も見た。


噂は広がる。


海鬼だ。


帰れなかった者たちが歩いている。


そう囁かれるようになった。


島の若者たちは面白がった。


怪談話として。


肝試しの題材として。


しかし年配者たちは笑わなかった。


特に恒一と藤本は。


彼らには分かっていた。


海鬼とは怪物ではない。


忘れられた記憶そのものなのだと。


十五年が過ぎた頃だった。


恒一は一冊の日記を書き始める。


誰にも見せない日記。


そこには全てが記されていた。


遭難事故。


木箱。


春香。


美咲。


そして後悔。


毎年少しずつ書き足していく。


死ぬ前に残さなければならないと思った。


誰かが真実へ辿り着いた時のために。


二十年が過ぎる。


島は少しずつ変わる。


人口は減った。


学校も統合された。


空き家も増えた。


それでも海だけは変わらない。


穏やかな瀬戸内海。


青い空。


夕暮れの島影。


その風景を見るたびに恒一は思った。


美咲もこの景色を見ていた。


春香も見ていた。


だから忘れてはいけない。


そう思った。


二十八年目の祭りだった。


恒一は初めてはっきり見た。


夜の海。


沖合。


提灯の列。


数十個。


いや。


数百個。


海面を静かに進んでいる。


そしてその先頭。


白い服の女性。


長い髪。


振り返る姿。


美咲だった。


恒一は立ち尽くした。


恐怖はなかった。


ただ涙が出た。


「すまん」


声が漏れる。


波音だけが返ってくる。


だがその時。


白い影が微かに笑った気がした。


許されたわけではない。


忘れられていないだけだ。


恒一はそう思った。


翌年。


藤本も同じものを見る。


さらに翌年には別の島民も。


海鬼の噂は広がった。


しかし誰も本当の意味を知らない。


それでよかった。


少なくともその時は。


三十年目の春。


恒一は病院のベッドにいた。


もう長くないと分かっていた。


窓の外には桜が咲いている。


その時だった。


夢を見る。


海だった。


瀬戸内海。


凪いだ海。


そして美咲。


若い頃のまま。


彼女は何も言わない。


ただ海の向こうを指差した。


そこには青年が立っていた。


見覚えのある顔。


遼介によく似ている。


いや。


遼だった。


三上遼。


まだ島へ来ていない。


だが恒一は確信した。


来る。


あの青年が来る。


物語を終わらせるために。


目を覚ました恒一は震える手で日記を書く。


最後のページだった。


たった一行だけ。


『海は忘れていない』


そしてペンを置いた。


窓の外では風が吹いていた。


瀬戸内から届くような優しい風だった。


三十年の沈黙は終わろうとしていた。


海鬼は人を呪うために現れたのではない。


誰かに思い出してもらうために現れたのだ。


そしてその役目を果たす者が、もうすぐ島へやって来る。


遼が。


全てを繋ぐ最後の語り部として。



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