【外伝第七章】 『遼介の夏』
美咲の葬儀の日。
空は曇っていた。
雨は降っていない。
だが島全体が涙をこらえているような空だった。
遼介は何も話さなかった。
誰とも。
何も。
祭りの日から三日が経っていた。
春香の遺体は翌朝見つかった。
美咲はさらに二日後だった。
静かな入り江に流れ着いていたという。
島中が悲しみに包まれた。
だが遼介の中には悲しみだけではない感情があった。
理解できない何か。
納得できない何か。
美咲は泳ぎが得意だった。
海を知っていた。
そんな彼女が帰ってこられなかった。
本当に事故だったのか。
何か隠されているのではないか。
その疑問が消えなかった。
葬儀が終わった夕方。
遼介は一人で海へ向かった。
祭りの日に約束していた岬。
夕陽が沈んでいく。
そこに美咲はいない。
ただ波音だけがあった。
ポケットの中に小さな紙が入っている。
美咲が書いたメモだった。
祭りの日の朝。
売店で受け取ったもの。
忙しくて読めず、そのままになっていた。
震える手で開く。
短い文章だった。
祭りが終わったら話したいことがあります。
驚くかもしれません。
でもきっと喜んでくれると思います。
岬で待っています。
美咲
遼介はしばらく動けなかった。
驚くこと。
喜ぶこと。
何だったのだろう。
もう聞くことはできない。
二度と。
夕陽が沈む。
空が赤く染まる。
その時。
不意に涙が溢れた。
初めてだった。
葬儀でも泣けなかった。
海を見ながら。
一人になって。
ようやく涙が出た。
何時間泣いたのか分からない。
気付けば夜だった。
そして。
そこから遼介の長い時間が始まった。
東京へ戻った後も、美咲を忘れることはできなかった。
大学を卒業する。
就職する。
結婚話もあった。
だが全て断った。
周囲は不思議がった。
なぜ結婚しないのか。
なぜ一人でいるのか。
遼介は答えなかった。
答えられなかった。
心のどこかが、祭りの日で止まったままだったからだ。
それでも生きた。
仕事をした。
絵を描いた。
写真も続けた。
時々瀬戸内を訪れた。
だが島へは戻らなかった。
戻れなかった。
思い出が多すぎた。
美咲が亡くなって七年後。
遼介はある荷物を受け取る。
差出人はなかった。
古い封筒だった。
中には一本のカセットテープ。
そして短い手紙。
差出人は恒一だった。
手紙にはこう書かれていた。
真実を知る資格があるのは君だけだ。
遼介はテープを再生した。
春香が録音していた会話。
島の大人たち。
木箱。
遭難事故。
救助を見送った事実。
そして後悔。
全てが残されていた。
遼介は夜通し聞いた。
怒りが込み上げた。
だが同時に理解もした。
彼らは怪物ではなかった。
弱かったのだ。
間違えたのだ。
そして三十年間苦しみ続けていた。
だからこそ公表できなかった。
だからこそ隠した。
許せるわけではない。
だが憎むこともできなかった。
その日から遼介は一つの決意をする。
テープを守る。
誰かが必要とする日まで。
忘れないために。
だが暴くためではない。
記憶を残すために。
それが美咲の願いだと思った。
春香の願いだと思った。
年月は流れる。
十年。
二十年。
三十年。
髪は白くなった。
身体も弱くなった。
それでも時々、夢を見る。
瀬戸内海。
夕陽。
岬。
そして美咲。
夢の中の彼女はいつも笑っていた。
責めない。
怒らない。
ただ笑う。
その笑顔に救われていた。
亡くなる一年前。
遼介は古いトランクを整理した。
テープを箱へ入れる。
手紙を書く。
息子へ。
遼へ。
もし辿り着いたなら。
もし知りたいと思ったなら。
その時に読んでほしい。
そんな内容だった。
書き終えた後。
窓の外を見る。
夕暮れだった。
空が赤い。
瀬戸内で見た色に似ている。
その時。
ふと潮の香りがした。
東京のはずなのに。
あり得ない。
だが確かに感じた。
そして。
耳元で声が聞こえた気がした。
ありがとう。
美咲の声だった。
遼介は笑った。
三十年ぶりだった。
心から笑えたのは。
「もう少しで返せるよ」
誰もいない部屋で呟く。
窓の向こうには夕陽。
その向こうには海。
そして。
愛した人の記憶があった。




