【外伝第六章】 『祭りの日』
朝から快晴だった。
空は高く青い。
海は鏡のように穏やかだった。
祭りの日にふさわしい天気だった。
島中が浮き立っている。
港には人が集まり、神社へ続く道には屋台が並ぶ。
焼きそばの香り。
太鼓の音。
子供たちの笑い声。
どこを見ても活気に満ちていた。
美咲も朝から手伝いに追われていた。
だが不思議と疲れは感じない。
今日が終わったら。
遼介へ話そう。
胸の中で何度もそう繰り返していた。
お腹の子のこと。
東京へ行きたいこと。
未来のこと。
全部。
今日なら言える気がした。
青いガラス玉をポケットへ入れる。
小さなお守り。
それだけで少し勇気が湧いた。
昼頃。
神社の境内で遼介と会う。
人混みの中でもすぐに見つけられた。
お互い笑う。
それだけで十分だった。
「後で岬へ行こう」
遼介が言う。
美咲は頷いた。
約束だった。
祭りの後。
二人だけで。
その頃。
春香は港近くの倉庫へ向かっていた。
心は決まっていた。
今日。
真実を公表する。
祭りで人が集まる。
その機会を逃したくなかった。
木箱を抱える。
重い。
だが、それ以上に責任を感じていた。
中には記録が入っている。
名前がある。
忘れられた人たちの人生がある。
誰かが語らなければならない。
春香はそう信じていた。
倉庫を出た時だった。
向こうから数人の老人が歩いてくる。
藤本。
恒一。
そして他の有力者たち。
皆、険しい顔をしている。
春香は立ち止まった。
風が吹く。
祭りの音が遠く聞こえる。
「春香」
恒一が呼ぶ。
優しい声だった。
「話を聞いてくれ」
春香は首を振る。
「聞きました」
「違う」
「違いません」
木箱を抱き締める。
震えていた。
怒りではない。
悲しみだった。
「どうして隠すんですか」
誰も答えない。
「亡くなった人たちがいるのに」
沈黙。
それが答えだった。
春香は後ずさる。
そして走った。
海へ向かって。
木箱を抱えたまま。
「待て!」
誰かが叫ぶ。
だが止まらない。
止まれなかった。
海へ行かなければならない。
返さなければならない。
なぜそう思ったのか自分でも分からない。
ただ強く感じた。
海が呼んでいる。
忘れられた人たちが呼んでいる。
そんな気がした。
その頃。
美咲は祭りの手伝いを終えようとしていた。
ふと春香の姿が見えないことに気付く。
嫌な予感がした。
理由は分からない。
だが胸騒ぎがする。
神社を出る。
人混みを抜ける。
そして見つけた。
春香だった。
海へ向かって走っている。
木箱を抱えながら。
「春香!」
呼ぶ。
だが届かない。
春香は振り返らない。
美咲も走った。
夕方の海岸。
祭りの喧騒が遠くなる。
波音だけが聞こえる。
春香は岩場へ辿り着いた。
その先は海。
瀬戸内海が広がっている。
そこへ老人たちも追いついた。
恒一。
藤本。
そして数人。
皆息を切らしている。
春香は木箱を抱き締めた。
涙を流していた。
「返します」
声が震えている。
「みんなに返します」
海風が吹く。
空は夕焼けに染まり始めていた。
赤い空。
赤い海。
まるで血の色だった。
恒一が一歩前へ出る。
「春香」
苦しそうな声。
「頼む」
春香は首を振る。
「駄目です」
そして海へ向き直る。
その瞬間。
足元の岩が滑った。
昨夜の雨で濡れていた。
ほんの一瞬だった。
身体が傾く。
悲鳴。
木箱が宙を舞う。
春香の身体が海へ落ちる。
誰も動けなかった。
あまりにも突然だった。
現実感がなかった。
波が砕ける。
木箱が海へ沈む。
春香も沈む。
その時。
美咲が飛び出した。
迷いはなかった。
ただ一つ。
助けたい。
それだけだった。
海へ飛び込む。
冷たい。
暗い。
波の中へ潜る。
春香を探す。
必死に。
何度も。
何度も。
そして。
見つけた。
しかし。
その向こうに別のものも見えた。
海底。
暗い海の底。
無数の灯り。
提灯だった。
何十。
何百。
何千。
数え切れない灯り。
そして。
人影。
海の底に立つ人々。
帰れなかった人々。
忘れられた人々。
長い年月を待ち続けた人々。
海鬼。
その正体。
美咲は恐怖を感じなかった。
悲しかった。
ただ悲しかった。
その瞬間。
海の底から無数の声が聞こえた。
――忘れないで。
――帰りたい。
――覚えていて。
涙が溢れた。
海の中なのに。
不思議だった。
そして。
大きな波が来た。
世界が白くなる。
意識が遠のく。
最後に浮かんだのは。
岬で見た夕陽だった。
遼介の笑顔だった。
そして。
まだ伝えていない言葉だった。
私は――。
そこで全てが途切れた。
祭りの太鼓は続いていた。
人々はまだ知らない。
島の運命が変わったことを。
海が記憶を取り戻したことを。
そして。
三十年後まで続く物語が始まったことを。




