【外伝第五章】 『祭りの前夜』
祭りまで、あと一日。
島は朝から賑わっていた。
港には帰省客が到着し、神社には屋台の準備が並ぶ。
赤い提灯が風に揺れている。
太鼓の音が遠くから聞こえてくる。
子供たちは走り回り、大人たちは忙しそうに働いていた。
年に一度の大切な祭り。
島にとって特別な日だった。
だが、その賑わいの中で、美咲はどこか夢を見ているようだった。
昨日。
遼介と想いを伝え合った。
たったそれだけのことなのに、世界が違って見える。
海も。
空も。
風も。
何も変わっていないはずなのに、全てが輝いているように思えた。
昼過ぎ。
二人は島の東側にある小さな浜辺へ向かった。
観光客は来ない。
地元の人間もあまり知らない場所。
岩場に囲まれた静かな入江だった。
波は穏やかだった。
瀬戸内海らしい静かな海。
砂浜へ腰を下ろし、二人は並んで海を見る。
「明日ですね」
美咲が言う。
「祭り」
遼介は頷く。
少し黙った後、小さく言った。
「終わってほしくないな」
美咲も同じ気持ちだった。
祭りが終われば。
夏も終わる。
そして。
遼介は東京へ帰る。
その未来が見えている。
だから今が愛おしい。
遼介は海を見ながら言った。
「東京へ来たら案内します」
美咲は笑う。
「まだ言うんですね」
「何回でも言います」
真面目な顔だった。
「待ってます」
その言葉に、美咲の胸は温かくなる。
待っている。
未来の話をしてくれる。
それが嬉しかった。
二人は夕方まで話した。
将来のこと。
仕事のこと。
好きな映画。
好きな音楽。
小さな夢。
大きな夢。
何時間でも話せる気がした。
そして別れ際。
遼介は美咲へ小さな包みを渡した。
開く。
中には青いガラス玉が入っていた。
海の色をした小さな飾り。
「お守り」
遼介は照れくさそうに言う。
「東京で買ったんですか?」
「うん」
美咲は大事そうに握った。
その時は知らなかった。
それが遼介から受け取る最後の贈り物になることを。
その頃。
春香は神社の裏手にいた。
誰にも見つからない場所。
手には木箱から持ち出した資料。
そして帳面。
春香は決めていた。
祭りの後。
全てを公表する。
島の人たちへ伝える。
本当の歴史を。
忘れられた人々を。
隠された事実を。
怖くないわけではない。
だが見てしまった以上、知らないふりはできなかった。
その時だった。
背後から声がした。
「何を調べとる」
春香が振り返る。
そこには数人の老人が立っていた。
島の有力者たち。
祭りの運営を担う人々。
その中には若い頃の藤本もいた。
皆、厳しい表情をしている。
春香は資料を抱き締めた。
「真実を知りたいだけです」
老人たちは顔を見合わせる。
沈黙。
やがて一人が言った。
「昔のことじゃ」
春香は首を振る。
「昔だから忘れていいんですか」
誰も答えない。
風だけが吹く。
蝉の声が遠く聞こえる。
春香は続けた。
「亡くなった人たちがいるんです」
「……」
「覚えていなきゃいけないんです」
老人たちの表情が揺れる。
怒りではない。
苦しみだった。
後悔だった。
だが。
それでも彼らは沈黙した。
春香はその沈黙が何より悲しかった。
夕方。
島を歩いていると、再び海が見えた。
沖。
水平線の近く。
灯りが浮かんでいる。
昨日より多い。
十。
二十。
三十。
提灯だった。
確かに。
誰の目にも見えるほどに。
春香は立ち尽くす。
風が吹く。
波が揺れる。
そして。
その灯りの向こうに人影が見えた気がした。
白い服を着た誰か。
海の上に立っている。
目を凝らす。
だが次の瞬間には消えていた。
幻だったのかもしれない。
それでも。
胸騒ぎは強くなる。
夜。
祭り前夜の静けさが島を包む。
提灯は明日のために並べられている。
太鼓も止んだ。
風だけが吹いている。
その頃、美咲は部屋で青いガラス玉を見つめていた。
遼介から貰ったお守り。
月明かりを受けて淡く輝いている。
美咲は微笑んだ。
明日が終わったら。
祭りが終わったら。
伝えたいことがある。
話したいことがある。
未来のことを。
二人のことを。
そして。
お腹に宿った小さな命のことを。
まだ誰にも言っていない秘密。
だけど。
明日なら言える気がした。
幸せな未来が続くと信じていた。
その夜。
海は静かだった。
あまりにも静かだった。
まるで。
嵐の前の凪のように。
祭りまで、あと数時間。
そして。
三十年後まで続く悲劇が始まろうとしていた。




