【外伝第四章】 『海が覚えている』
祭りまで、あと五日。
朝から空は晴れていた。
真夏の日差しが島を照らしている。
港には観光客が増え始めていた。
祭りが近いからだ。
美咲は売店の窓から海を見ていた。
沖には白い船。
青い空。
いつもと変わらない瀬戸内の景色。
だが胸は落ち着かなかった。
昨夜から遼介のことばかり考えていた。
灯台での出来事。
スケッチブック。
あの視線。
あの沈黙。
思い出すだけで顔が熱くなる。
「顔赤いよ」
突然声がした。
春香だった。
美咲は慌てる。
「暑いから」
「嘘」
春香は笑った。
昔から隠し事は通用しない。
「東京の人でしょ」
美咲は観念した。
春香は満足そうに頷く。
「やっぱり」
その笑顔は優しい。
からかっているようで、本当は応援している。
そんな笑顔だった。
しかし。
その表情がふと曇る。
美咲は気付いた。
「どうしたの?」
春香は少し迷う。
そして小さく言った。
「島の昔のこと調べてる」
美咲は驚いた。
「急に?」
「変な記録を見つけた」
倉庫で見た木箱のことだった。
遭難記録。
救助船。
隠された資料。
春香は話しながら首を傾げる。
「なんか変なんよ」
美咲は少し不安になる。
だが春香は笑った。
「気にしすぎかもしれん」
その笑顔はどこか無理をしていた。
夕方。
遼介は岬で待っていた。
約束していたわけではない。
だが最近は自然とそうなっていた。
会いたいと思う。
すると本当に会える。
そんな日々だった。
夕陽が海を染める。
黄金色の瀬戸内海。
静かな波。
島影が黒く浮かぶ。
遼介は言った。
「この景色、忘れないと思う」
美咲は海を見る。
「私はずっと見てるから」
「羨ましい」
遼介は本気だった。
そして少し黙る。
風が吹く。
波が揺れる。
遠くで船のエンジン音が聞こえた。
やがて。
遼介が口を開く。
「美咲さん」
声が少し震えていた。
「はい」
「好きです」
時間が止まった。
風も。
波も。
夕陽も。
全部が遠くなる。
聞き間違いではない。
確かにそう言った。
好きです。
美咲は何も言えなかった。
胸がいっぱいだった。
嬉しい。
信じられない。
怖い。
全部一緒だった。
遼介は苦笑する。
「返事しなくていいです」
その言葉に美咲は首を振った。
そして。
小さく言った。
「私も」
遼介が顔を上げる。
美咲は笑った。
少し泣きそうだった。
「私も好きです」
その瞬間。
夕陽が水平線へ沈んだ。
世界が茜色に染まる。
遼介は笑う。
美咲も笑う。
何も特別なことはなかった。
手を繋いだわけでもない。
抱きしめたわけでもない。
ただ笑った。
それだけだった。
だが二人には十分だった。
その頃。
春香は再び倉庫へ来ていた。
昼間の笑顔は消えている。
木箱を開く。
中の資料を読む。
古い記録。
遭難者名簿。
手書きの日誌。
そして。
最後に出てきた一冊の帳面。
ページを開く。
そこにはこう書かれていた。
《救助要請受理》
《悪天候のため出航見送り》
春香の手が止まる。
さらに読む。
《出航可能》
《島代表者協議》
《待機継続》
意味が分かった瞬間。
全身が冷えた。
救助できた可能性があった。
それなのに。
出航しなかった。
誰かが決めた。
その結果。
多くの人が海で亡くなった。
春香は帳面を閉じた。
呼吸が浅くなる。
信じられなかった。
島の英雄たち。
語り継がれてきた人々。
その裏側に。
こんな事実があったのか。
その時だった。
背後で床が鳴った。
ギシ。
春香が振り向く。
誰もいない。
だが。
確かに気配がした。
窓の外を見る。
夕暮れだった。
海が見える。
そして。
沖に灯りが浮かんでいた。
一つ。
二つ。
三つ。
今度は消えない。
提灯だった。
海の上を漂っている。
春香の背筋に寒気が走る。
風が吹く。
波が揺れる。
その灯りはまるで並んでいるようだった。
誰かを待つように。
誰かを呼ぶように。
そして。
微かに声が聞こえた気がした。
――返して。
春香は帳面を抱きしめる。
海を見る。
提灯は静かに揺れていた。
まるで海そのものが記憶を取り戻し始めたかのように。
祭りまで。
あと五日。
そして。
悲劇まで、あと五日だった。




