【外伝第三章】 『約束の岬』
祭りまで、あと七日。
夏空はどこまでも青かった。
港では提灯の準備が進み、神社では太鼓の音が響いている。
島全体が祭りへ向かっていた。
その一方で、美咲の心は別のことで満たされていた。
遼介のことだった。
朝起きると考える。
昼間も考える。
夕方になると会えるだろうかと思う。
そんな自分に気付いていた。
だが認めるのは少し怖かった。
遼介は東京へ帰る。
夏が終わればいなくなる。
だからこそ。
深く想わない方がいい。
そう思っていた。
その日の午後。
二人は島の南側にある古い灯台へ向かった。
観光地でもない。
地元の人間もほとんど来ない場所だ。
灯台へ続く道には背の高い草が揺れている。
蝉の声。
潮の香り。
瀬戸内の静かな風。
遼介は時々立ち止まりながら写真を撮っていた。
「そんなに珍しいですか?」
美咲が聞く。
遼介は笑う。
「珍しいよ」
「ただの道ですよ」
「東京にはない」
その答えに美咲も笑う。
遼介は何でも特別に見つける。
小さな港。
古い船。
石垣。
漁師の網。
自分にとって当たり前のものを、宝物のように見つめる。
だから一緒にいると楽しかった。
灯台へ着く頃には夕方になっていた。
海が見渡せる。
大小の島々が浮かぶ瀬戸内海。
夕陽が水面に光の道を作っている。
遼介はしばらく黙っていた。
そして小さく言った。
「帰りたくないな」
美咲の胸が少しだけ痛む。
帰る。
その言葉。
夏の終わり。
別れ。
全部が繋がっていた。
「まだいるじゃないですか」
「あと一週間」
遼介は笑う。
だがその笑顔は少し寂しかった。
二人は灯台の下へ腰を下ろした。
風が心地よい。
沈みゆく夕陽。
静かな海。
時間までゆっくり流れているようだった。
「美咲さん」
遼介が呼ぶ。
「はい」
「本当に東京へ来る気ない?」
またその話だった。
だが今度は少し違う。
冗談ではない。
本気だった。
美咲は海を見る。
答えられない。
夢はある。
島を出たい気持ちもある。
だが怖い。
失敗したらどうするのか。
家族は。
仕事は。
将来は。
考えるほど足が止まる。
すると遼介が言った。
「怖いのは普通ですよ」
美咲は驚く。
心を読まれた気がした。
「俺も怖い」
「東京の人でも?」
「関係ないよ」
遼介は笑う。
「みんな怖い」
風が吹く。
灯台の影が長く伸びる。
「でも一歩踏み出さないと景色は変わらない」
その言葉を美咲は忘れられなかった。
しばらく沈黙が続く。
夕陽はもう半分沈んでいる。
その時だった。
遼介がポケットから何かを取り出した。
小さなスケッチブック。
「これ」
差し出される。
開く。
そこには美咲が描かれていた。
港で笑う姿。
岬で海を見る姿。
神社の石段を登る姿。
知らないうちに描かれていたらしい。
「え……」
言葉が出ない。
驚いた。
嬉しかった。
恥ずかしかった。
全部一緒だった。
遼介は少し照れたように笑う。
「怒る?」
「怒りません」
むしろ。
泣きそうだった。
誰かにこんな風に見てもらったことがなかった。
ただそこにいるだけの自分を。
特別な存在のように描いてくれた人は初めてだった。
夕陽が沈む。
空が茜色になる。
その時。
二人の視線が重なった。
何も言わない。
だが分かった。
お互いに。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
特別になり始めていることを。
その頃。
春香は別の場所にいた。
港の倉庫だった。
叔父の手伝いで荷物整理をしていたのだ。
古い箱を動かしている時だった。
奥から木箱が出てきた。
かなり古い。
見たことがない。
蓋が少し開いている。
中には紙が入っていた。
何気なく取り出す。
そして凍り付いた。
そこには名前が並んでいた。
遭難者名簿。
さらに別の紙。
救助要請記録。
そして最後の一枚。
《救助船出航見送り》
春香は息を呑む。
意味が分からない。
だが何かがおかしい。
島で聞いていた話と違う。
事故ではなかったのか。
なぜこんな記録があるのか。
その時。
倉庫の外で誰かの足音がした。
慌てて紙を戻す。
木箱を閉じる。
だが。
春香の胸には確かな疑問が残った。
島は何かを隠している。
そんな予感だった。
夕暮れ。
港へ帰る途中。
春香は沖を見た。
静かな海。
美しい瀬戸内海。
しかしその瞬間。
海の上に灯りが見えた気がした。
一つ。
二つ。
三つ。
提灯のような灯り。
だが目を擦ると消えていた。
気のせいだと思った。
そう思おうとした。
けれど。
風が耳元で囁いた気がした。
――返して。
春香は思わず振り返る。
誰もいない。
波の音だけ。
だが胸騒ぎは消えなかった。
祭りまで。
あと七日。
運命は静かに動き始めていた。




