【外伝第二章】 『祭りまで十日』
八月に入ると、島の空気が変わる。
祭りが近づくからだ。
子供たちは太鼓の練習を始める。
漁師たちは提灯を修理する。
神社では境内の掃除が行われる。
島全体が少しずつ祭りへ向かって動き始める。
その朝も、港には蝉の声が響いていた。
美咲は売店の前を掃除している。
そこへ遼介が現れた。
首からカメラを提げている。
すっかり島の風景に馴染んでいた。
「おはよう」
「おはようございます」
自然な挨拶だった。
初めて会った頃のぎこちなさはもうない。
「今日はどこ行くんですか?」
「決めてない」
遼介は笑う。
「じゃあ案内してください」
美咲は呆れた。
「またですか」
「またです」
結局断れない。
二人は島の北側へ向かった。
観光客はほとんど来ない場所だった。
小さな漁港。
石積みの防波堤。
古い祠。
瀬戸内らしい静かな景色が続く。
途中で出会ったのが春香だった。
麦わら帽子を被り、自転車を押している。
「美咲!」
元気な声。
春香はいつも明るかった。
少なくとも周囲にはそう見えていた。
「また東京の人と一緒なんじゃね」
からかうような笑顔。
美咲は慌てる。
「違うよ」
「何が違うん?」
春香は笑う。
遼介まで笑っている。
美咲は少し腹が立った。
だがそのやり取りが心地良かった。
春香は二人と並んで歩き始める。
夏の日差し。
青い海。
三人の笑い声。
その光景はまるで写真のようだった。
昼頃。
海が見える高台で休憩した。
春香はラムネを飲んでいる。
遼介はスケッチブックを広げる。
美咲は海を見る。
遠くに島影が並ぶ。
穏やかな瀬戸内海。
「東京ってどんな所?」
春香が聞く。
「人が多いよ」
「それは知っとる」
「夜でも明るい」
「それも知っとる」
「電車が多い」
「それも」
春香は笑った。
遼介も苦笑する。
「じゃあ何が聞きたいの」
少し考えて。
春香は答えた。
「夢が叶う場所?」
風が吹いた。
誰もすぐには答えなかった。
やがて遼介が言う。
「叶う人もいる」
「叶わない人もいる」
春香は頷く。
「やっぱりそうか」
その表情は少し寂しそうだった。
美咲は横顔を見る。
春香にも夢があった。
島を出たい。
もっと広い世界を見たい。
何度も聞いたことがある。
だが家の事情で難しかった。
だから笑っていても、時々遠くを見るような顔をする。
その日の帰り道だった。
神社の石段近くで老人たちが話しているのが聞こえた。
「最近また出たらしいぞ」
「誰が見たんじゃ」
「沖の漁師じゃ」
春香が足を止める。
「何の話?」
老人の一人が振り向いた。
「海鬼じゃ」
その言葉に空気が変わる。
海鬼。
島に昔から伝わる怪談。
夜の海に現れるという存在。
子供たちは怖がる。
大人たちは笑う。
だが完全には否定しない。
そんな話だった。
「またそんな話」
春香は笑う。
だが老人は真顔だった。
「今年は祭りの年じゃ」
「祭りの年?」
美咲が聞き返す。
老人は少し迷った後、言った。
「三十年ごとに噂が増える」
風が吹く。
蝉の声が一瞬遠くなる。
「海が思い出すんじゃ」
その言葉だけ残して老人は去っていった。
帰り道。
三人とも少し静かだった。
やがて春香が笑う。
「海鬼なんておるわけない」
遼介も頷く。
「そうだね」
だが美咲だけは何となく引っ掛かった。
海が思い出す。
その言葉が胸に残っていた。
夕方。
西の岬。
いつもの場所。
美咲と遼介は海を見ていた。
太陽がゆっくり沈んでいく。
「春香さん」
遼介が言う。
「元気な人ですね」
美咲は笑った。
「無理してる時もあるけど」
「そうなの?」
「本当は色々考えてる」
海が黄金色に輝く。
波は穏やかだった。
「みんなそうかもしれない」
遼介が呟く。
美咲は横顔を見る。
優しい目だった。
人を見る時の目。
だから話しやすいのかもしれない。
その時。
遼介が不意に言った。
「東京へ来る気ない?」
二度目だった。
美咲は少し笑う。
「まだ言うんですか」
「まだ言う」
真剣だった。
「美咲さんなら大丈夫だと思う」
胸が少し熱くなる。
誰かにそう言われたのは初めてだった。
島では皆、現実的な話しかしない。
だが遼介だけは違う。
可能性を信じてくれる。
未来を信じてくれる。
その夕暮れ。
美咲は初めて思った。
もし。
もし本当に東京へ行けたら。
この人と同じ景色を見られるのだろうか。
瀬戸内の海を離れても。
この気持ちは続くのだろうか。
遠くで祭りの太鼓が聞こえ始めた。
夏は少しずつ終わりへ向かっている。
そして運命の祭りの日まで。
あと十日。
誰もまだ知らなかった。
この穏やかな夕暮れが、三人で過ごす最後の夏になることを。




